民間開放・地域主権 −労働行政の民間開放、地域主権など

2010年10月
◎現下の地域主権改革をどう見るか          
専修大学法学部教授 白藤 博行

全労働は2010年4月6日、行政法や地方自治に詳しい専修大学法学部教授の白藤博行氏に、疲弊した地方自治体の実情や現下の地域主権改革の問題点等について、お話をお聞きしましたので、紹介します。

森崎:今日は地域主権改革に関わって、専修大学の白藤先生にお聞きしていきたいと思います。
最初に、民主党政権が掲げる地域主権改革、すでに「工程表」が示されていてこれが前倒しされる動きにあります。急ピッチに進んでいると言っていいと思います。しかしながら、その中身はまだ国民によく理解されているとは言い難いのではないでしょうか。
地域主権改革、前政権の用語でいいますと、地方分権改革ですけれども、これは90年代から財界が一貫して主張してきた「改革」です。その先には、「究極の構造改革」と呼ばれる道州制への展望も示されています。現下の動きは財界のめざす、こうした「改革」とぴったりと合致しているように見えます。この動きをどのように見ているかお聞きしたいと思います。

白藤:最初から難しい質問ですね。地域主権改革が、単なる政治的なキャッチフレーズか否かはともかくとして、これまでの地方分権改革との関係で言うと、連続する面と断絶する面があると思います。今の通常国会に地域主権改革関連法案が出されていますが、例えば、義務付け・枠付けの関係で言うと、前政権下の地方分権改革推進委員会の立場を踏襲しています。また、地方公共団体との間の協議の場の法制化も、この間に課題となっていたことで、その点では連続している面があります。何がどう違うのかが問題です。用語あるいは概念を変えるには、それなりの理由があるはずです。単なる目くらましかもわかりませんが、地方分権改革ではなく、地域主権改革というからには、そこに何かがあるはずです。たとえば、鳩山首相や原口総務大臣の言うところを善解すれば、地域のことは地域の住民が決めるということなのですが、本当にそうなのかということです。たとえば、地域主権といった場合の地域とは一体何を指しているのか、主権という概念は、少なくとも法律上の概念として使う場合、つまり地域主権や地域主権戦略会議を法制化するとしたら、主権が法的には一体何を意味しているのか大変重要になってきます。したがって、単に住民に身近な地方自治体のことは住民自身で決めるとかいった内容だけだとは、まず考えにくいわけです。それだけなら、端的に住民主権と言ったり、これまでどおり住民自治と言ったりすればいいわけだからです。
今、道州制も念頭に置いているのではという指摘がありましたが、原口大臣は「道州制は捨てていない」と明言しているし、鳩山総理も、第29次地方制度調査会の結論が市町村合併を一旦休止するとしたことに対して、「果たしてストップしても良いものか」と意見を述べています。このように道州制は捨ててないと言ってみたり、市町村合併は止めてはいけないという認識を示したり、現実政治をみていると、地域主権改革の中の地域という概念の中には、ある一定の気持ちを込めているのではないか。つまり、地域主権の地域とは道州を念頭に置いているのではないか、はっきり言えば、「道州主権」の本音がみえると思わざるをえないわけです。かつて地方分権改革を主導した「未完の分権改革」イデオロギーよろしく、今後も自治体の大規模化政策を推し進め、一気に道州制まで突っ走るといった「道州主権改革」のようなイメージが念頭に置かれているのではないかと想像してしまいます。このように考えると、財界が「地域主権と道州制を推進する国民会議」を設立して、積極的にやっていこうとどんどん仕掛けている、それと平仄(ひょうそく)が合います。地域主権改革というと耳障りは良いけれど、おっしゃるとおり、本当のねらいは別にあると考えるのが普通でしょう。

森崎:日本経団連が10月20日に『改めて道州制の早期実現を求める』という文書を発表しています。これを受けたかたちで原口大臣も日本経団連と会った際に、「経団連の道州制の方向は正しい。経団連と共通のプラットホームを作り、タスクフォースで一緒に推進したい」と表明しています。総務大臣自ら経団連の道州制をめざした地域主権改革の方向に同調しているわけです。今回の動きも、結局、財界主導で動いていると感じます。財界が、なぜ地域主権改革あるいは道州制をめざすのか、その目的について、財界に聞いてみればいいというところなんでしょうが、先生はどうみていますか?

白藤:本当のところは良くわからないけれど、民主党の昨年の選挙前の政策には、最初、道州制が明記されていたり、あるいは300基礎自治体という小沢一郎氏のかねての課題が書かれてあったり、そこには道州制とそのもとでの大規模自治体への再編といった考え方が通奏低音として流れていることは間違いありません。日本改造計画といった政治家としての構想というのがもちろんあるんでしょうけれども、グローバル化する経済との関係で言うと、財界のグローバル戦略にあわせた形で日本の政治構造、統治構造のあり方を模索していくという意図は当然あるでしょう。そして、もっとさし迫った要求との関係では、経団連等のシンポジュームや研究会で報告したりしている経済学・財政学の研究者の中に「道州ミニマム」論を展開するものがあり、たいへん参考になります。日本を北海道、東北、関東等というように10ないし11の州に分けて、それぞれの州が立法権を持ったり、行政権を持ったり、あるいは財政権を持ったりするようにする。その意味では形式的には分権論ということになります。しかしその実態をみると、それぞれの地域には現段階ですでに地域間格差があります。本当の狙いはその地域間格差の固定にあるのではないかという疑問が直ちに湧いてきます。つまりたとえば「関東州」の生活水準と同じ生活水準を「東北州」で望むなかれ、といった主張が気になるところです。ナショナルミニマムの基準を、たとえば東京水準に置かれてしまうと、どれだけ予算があっても足りない。東北には東北ミニマムがあり、関東には関東ミニマムがあるのだから、東京のことをうらやましがるな、というわけです。地域間格差を固定化できれば日本全体の財政支出が減ることになり、経済界の負担も減ることになる。例えば、関東が100だとしたら、東北は70ぐらいの水準で我慢しろということです。このようにナショナルミニマムの保障というのはもう無理だから「道州ミニマム」でいいということになれば、70のところを無理して100に引き上げる必要はなくなるわけですから、日本の財政総支出が抑制できるという考え方があからさまでわかりやすい形で展開されており、財界の論理に適合的です。財政学的には多分そういうような計算が成り立つのだろうと思います。
さらにこのような道州を財界が実質的に支配するとなれば、つまり資本従属的道州が誕生することになれば、「日本株式会社」ではないけれど、財界の日本経営はたやすくなるでしょう。国民合意を得なくても、道州ごとで自分たちの使い勝手のいい空港を造ったり港を造ったり、彼らに有利な社会資本整備を充実することがまったく容易になります。専門外で、経済的・財政的なことは良くわからないんですけども、そんなことであろうかなと想像しております。

森崎:今あるナショナルミニマムをとってみても、これからは自治体ごとに住民が自己責任で決めていくというような形、そういう「自分たちのことは自分たち」というフレーズは非常に耳触りがいいというか、受け止めそのものはいいけれども、実際のところそういうことを進めていくと国民の生活や権利はどうなっていくかが、重要な点です。今回の上程している法案をみても、もう国は関与をやめてほとんどの行政分野から撤退すべきとの考え方が、そこにあります。例えば、今注目が集まっている保育所設置基準も、義務付け・枠付けの見直しということで、都市部に限っていますが、国の基準に従う必要はなく自治体ごとに基準を設定してもよいということになっています。ところが、この国の基準というのはあくまで「最低基準」を決めているだけです。子供一人に対して1.98?の確保が定められていますが、それより広い良質の保育所は今も作ってもよく、それより狭いのはダメという基準だから、これを撤廃するというのは、かたちを変えた「規制緩和」だと思うわけです。財政上の手立てもなく、こういう「規制緩和」をやっていくと国民の生活と権利がどんどん脅かされていくのではないかと懸念しています。

白藤:まず、最初のご質問の地域主権改革をどうみるかとも関係しますが、地方分権改革だとか、地域主権改革という今の流れを、どうとらえるかという基本的な問題があると思います。地方の実態をみると、経済的な落ち込みから始まって、そもそも仕事が見つけられないような状況に陥っています。地方の実態は、もはやさまざまな要因の疲弊が折り重なった「複合的な疲弊」状態に陥っているわけです。地方で人々がまともに暮らせないような状態に陥っているなかで、今のような義務付け・枠付けの緩和・廃止が始まり、さまざまな事務が押しつけられる。しかも税源移譲はないままで、交付金や補助金などもどんどん減らされるというように、お金は付いてこないとなるとどうなるのでしょうか。こうした実態との関係で言うと、地域主権改革が、分権改革が地方自治を破壊するといった「分権改革の逆機能」をさらに加速することになりかねません。最近よく言うのですが、「分権改革の逆機能」とは、ジョギングは健康にいいといって、病人に推奨するようなものではないでしょうか。健康な状態にある人がジョギングをして、健康を維持しよう、もっと健康になろうというのはいいんですが、病気で入院治療しているような人に健康のためにジョギングをしましょうといえば逆に命を縮めることになりかねません。こういう観点から言うと、「複合的な疲弊」状態にある地方の状態をみないままの地域主権改革は、まず出発点として大きな問題があると思います。もう一つ、義務付け・枠付けの緩和・廃止の論理は、例えば、自治体が自分で事務をやりたいと言うから、事務の義務付けを外してやろう、基準も外してやろう、枠付けも外してやろう、だから自分たちで自由にやりなさいということですが、これまでただただ地域的な不均等発展を許し、地域が独り立ちできないような状態にしておいて、あとは勝手にやりなさいと言うのは、地域的な不均等発展をより悪化させることにしかなりません。このままでは、これまでも国家従属性のもとにあった自治体、つまり財政なり行政なりの面で国家に従属させられてきた自治体が、地域主権改革のもとで、今度は民間の大資本が地方支配を進めるもとで、自治体の資本従属性を強化するだけの改革になりかねないと思います。この辺から今の義務付け・枠付けの問題も考えていかなければいけないでしょう。
グローバル国家化は、国民の人権保障・権利自由を奪ってしまうという意味で「脱国民化」を意味しますが、それと同様に、自治体の合併を繰り返し大規模化していくことは、住民の身近な行政は住民が意思決定してやるという分権の理念とは裏腹に、むしろ住民と自治体との距離を拡大し、結局は住民の人権保障や権利自由をないがしろにする「脱住民化」を進めることになります。地域主権改革でいかにも住民の選択肢は広がり、住民の自己決定の可能性が拡大すると喧伝されているけれども、実際にはそうはならないでしょう。だから、法律による義務付け・枠付けの緩和・廃止だけをとったら自治体の自由度が高まるといえるかもしれませんが、それは大義名分だけで実際は決して自由度なんて高まらない。地域主権改革のもとで行われる義務付け・枠付けの見直しの本音は、森崎さんがおっしゃるように、新自由主義的な規制緩和に過ぎないとみるのも見識です。もしこのような批判が当たってないとおっしゃる方がいるなら、地域主権改革がもっとも恵まれない自治体の条件を改善していくということを実証してほしいものです。地方の実態もみずに、国の立法的関与を緩めてやるから自治体の自由度が高まる。地域主権改革の論理が、何もやれない自治体は無能なのだから合併でもして力をつけなさいという論理だとしたら、市町村合併論で日本の地方自治を破壊した「未完の分権改革」イデオロギーの延長線上にあるというしかありません。
もう一つ、義務付け・枠付けの話で言うと、例えば、施設・設備の基準の見直しがあります。廊下や窓を地域の実情に合わせて変更したいのにできないとかいったものを改善したいといったレベルのものであれば問題ないのですが、実は施設・設備の基準の見直しの対象になっているところを子細にみると、かつて必置規制改革や規制緩和で問題になったところと重なっており、しかも国の補助金などと連動しているのです。おそらく想像すると義務付け・枠付け外すということになれば、国はもう財政的援助は何もしませんという形で処理されるということになるのではないでしょうか。
義務付け・枠付けの見直しの責任者である小早川光郎教授が『ガバナンス』という雑誌でインタビューを受けていて、結局補助金等に連動するのではないかといった質問を受けた際、「いや、自分たちはお金と連動しない形でこの改革を構想している」とわざわざ言っています。主観的にはそうかもわからないけれど、決してそんなことでは済まないわけで、義務付けが取れました、枠付けが取れました、だから金銭的な支援は必要ありませんと必ずつながるはずです。これまでもそうだったわけですから、今回だけ例外というはずがないと思っています。地方分権だとか、地域主権だとかは、規制緩和の要素がかなり強いということと、財政的な関係性がかなり強い、むしろそちらが本音であると考えても多分間違いではないでしょう。

森崎:先生の言われた指摘と、今回の法案の文言は符合すると思います。つまり「地域住民が自らの判断と責任において」という言葉をわざわざ入れているわけです。正に自己責任論ではないでしょうか。こういう考え方で税源も権限も与えたのだからと、国の関与や支援を排除していけば、ますます格差は広がるでしょう。

白藤:財界の道州制を理論的に支えている人達の「道州ミニマム」等の議論とも全部符合します。教育や社会保障の面では国が最終責任だと言っているけど、最終責任を負えばいいのかという話があります。これは、日本だけじゃないけれど、国家がどんどん人間の生存や生活保障等の分野において、自らの直接履行責任を後退させています。
自己決定で、自己責任で、まずは自分たちでやりなさい、最終的にそこで何か不都合が起きてどうしても自分たちで解決できない問題が生じたときには、それがお金の問題で済むんだったら最終責任をとりましょうという傾向があります。ヨーロッパでは「第三の道」論が有名ですが、基本的には「第三の道」なんでしょうが、新自由主義の極端なかたちを修正する国家論が今ヨーロッパで流行っています。ドイツやイギリスでいうところの、いわゆる「保障(保証)国家」論です。まずは民の責任でやらせて、にっちもさっちも行かなくなるときまで放置しておく。金で済むことだったら最終的に金で保障しましょうということです。最終責任を国家が負うということで聞こえはいいかもしれないけれど、社会保障や社会福祉の領域で考えれば、やっぱり腰がひけた国家論だと思います。仮にも社会国家(福祉国家)を標榜するドイツにあって、社会福祉の直接履行責任を放棄するということは、社会保障責任からの国家の後退と批判されても仕方のないところでしょう。わが国の行政責任論・国家の責任論もそういう国家論に符合していると思います。こうした「保障国家」論の具体の分析・検討が喫緊の課題でしょう。

森崎:先程も「地域住民の自らの判断と責任において」という文言に触れましたけれども、こういう指摘があります。この表現は2005年に発表した自民党の新憲法草案の地方自治に関する規定とそっくりだという指摘です。その指摘の逆の質問ですけれども、そうではなくて、現行憲法が本来、求めている地方自治を展望するにあたって、今やるべきこと何でしょうか。

白藤:すごく難しいけれど、基本的には真正の住民自治を展望するということに尽きると思います。地方分権改革論という枠組みで言えば、例えば、事務や権限を地方に委ねても、国の関与や国の縛りが強く、その意味での「管理分権」いうのはよくない。逆に全部自治体にお任せという「お任せ分権」もよくない。自治体や自治体住民によって自治ができるように国がサポートをすることが重要です。「管理分権」でも、「お任せ分権」でもない、つまりすべて国が責任を放棄する型の分権ではなくて、「サポート分権」が必要だと思います。個人だって一緒です。誰かに依存して生活したくないから自立したいと思うわけですが、自立するまでにサポートしてあげるとか、自立してもなおサポートが要ることもあります。このように個人が絶対に「自足しえない存在」であるのと同様に、自治体だって「自足しえない存在」であるところから考えなければなりません。「自足しえない存在」から国家の存在理由は生まれたのですから。自治体なんだから自己責任・自己決定で全部勝手にやれと丸投げするのではなく、自治体も個人と同じように「自足しえない存在」としてまず認識することから始まって、自治体同士が助け合ったり、国がきちんとサポートしたりして初めて自立的・自律的な活動ができる、そういうことにちゃんと配慮した分権論・自治論ではないと話になりません。

森崎:地域主権改革を推進する勢力の言う「補完性の原理」とも通じるように見えますが、実際、この間の議論をみても国が補完する体制が確保されるとは到底思えません。逆にきちんとした補完のための体制を整えようとするなら、それこそ「二重行政」ということになるのではないでしょうか。

白藤:ドイツの補完性原理については、もう20年以上前から勉強しているけれど、一般的に使うのは危険な面もあります。まず補完性原理というのは、法的には、あくまで小さな自治体の事務の吸い上げ論に抗う議論として登場したことに注意しなければなりません。日本でも市町村の事務処理が非効率だとして、県が事務を吸い上げるという事態が以前には実際にあったのです。こうした事務の吸い上げに対して、ドイツでは自治権侵害を理由に裁判がたくさん起きて、リーディングケースとなったドイツ連邦憲法裁判所の判決(1988年・Rastede決定)では、市町村優先の事務配分原理をはじめて憲法の自治権保障の一内容と認め、この原理に優る理由がない限り、上級行政団体による市町村の事務の吸い上げは許さない。そして市町村の行政能力・非効率は、決して事務の吸い上げの正当な理由とならないことを明らかにしました。このように補完性原理は、そもそも市町村自治を護る議論なのです。それが、日本の場合は、自治体の行政能力を超える事務をこれでもかというほどに押し付け、処理できないとなると合併をしてでも事務処理能力をつけろというようなとんでもない話になっています。法的な補完性原理論は、そもそも新自由主義的な論理でも、自治体の規模能力拡大を正当化する論理でもなくて、個別の市町村の存立を保障するための論理なのです。
このような補完性原理の誤用に関連して、地方自治法上の国と自治体の役割分担論の誤用についても一言しておきたいと思います。軍事の問題や外交の問題は国の役割なのだから自治体は口を出すなというような役割分担論がまかり通っています。そもそもこのような意味での役割分担論は憲法が保障する地方自治論からは出てこないと思いますが、ここではその問題は措いて、地域主権改革との関係を考えてみましょう。ものすごく善意に解すれば、地域主権の地域には市町村も入るわけですから、地域主権という場合、市町村主権もありうるわけです。そこで具体的に普天間基地の問題を考えてみると、普天間基地の所在する宜野湾市には「宜野湾市主権」があるのだから、宜野湾市が基地を不要と言ったらそれを認めるということになるのでしょうか。それとも地域主権といっても、国と自治体との役割分担論からすれば、「宜野湾市主権」は成り立たない議論となるのでしょうか。そこのところをちゃんと詰めないといけません。もしこのような意味で「宜野湾市主権」を認めるというならば、私は地域主権論に賛成します。地域主権というような言い方で主権論を持ち出していますが、憲法が保障する自治権との整合性が問われます。法的に定義もできない主権論を持ち出して、軽々に主権論を振り回してはいけないのではないでしょうか。
国と自治体との関係は、地域主権といった意味不明の概念で説明できるほど簡単な問題ではないのです。では何が問題なのか。おそらく憲法は、地方自治体の孤立した自治を考えているのではなく、国から一定の自由度を持ちつつ、しかし完全に糸の切れた凧のようになるのではなく、国と自治体との関係はあくまでも理念的には対等な関係を目指しつつも、しかし現実的にはときには鋭く対立するきわめて緊張度の高い関係であるのではないか。それから、地方自治体自身は、住民が主体となって住民自治が十全に実現できるようなものを常に目指してゆく、あくまでも傾向的にそれを目指してゆくということだと思います。そういうコンビネーションがうまくできてはじめて地方自治を保障する意味があると思うのです。地方自治など、本当なら国がすべて上手くやってくれたら要らないわけです。あえて地方自治を保障するということの意味は、それによって地域に住んでいる住民がより幸せを感じたり、客観的にみても、より幸福を追求できるようなシステムや制度の中に生きられることを保障することを憲法は想定しているからだろうと思います。

森崎:そういう可能性のある自治体として、構想されている300基礎自治体は相応しいと考えますか。300基礎自治体というと、大体30万、40万の人口を想定することになります。
白藤:とんでもない大きさです。そもそも自治体に値しないじゃないですか。一方で住民に身近な行政は住民に身近な自治体にと言っておいて、30万人、40万人の自治体が住民に身近な行政ですか、矛盾しているじゃないですか。なぜ道州になってもまだ自治体だと言い張るのでしょうか。1000万人規模の地方自治体が世界中どこを探してあるのでしょうか。道州を一種の国家として制度化する連邦制国家ならまだしも。しかし連邦国家の道州であれば、立法権や行政権だけでなく裁判権も持たなくてはなりません。連邦と州との権限については、当然ながら憲法の明文で定めなければなりません。わが国でそうすると本当にそこまでするのかという話が出てきます。自治体としての道州といった無責任な議論を無邪気にするのもいい加減にしてほしい。憲法が保障する地方自治の蹂躙以外の何物でもないでしょう。

森崎:本当に乱暴な議論ですね。ある意味で、反地域主権的な動きと言ってもいいのではないですか。

白藤:今のような話を含めて、地域主権改革について1歩も10歩も下がって考えたときに道州というものの存在を認め、都道府県の存在も認め、大規模な市もあれば、小さな町村もある。そのような多層的な民主主義的政治システム模索するというなら、まだ考える余地はあります。地域主権だと言いながら、一方で道州というものを是とし、基礎自治体と言っても、人口1万人や2万人の基礎自治体は想定せず、30万人〜40万人の自治体を想定している。なんでこれが住民に身近な行政を、住民に身近な自治体が決定するシステムになるのでしょうか。例えばヨーロッパでは、EUから始まって、国民国家があって、国民国家のなかには連邦制国家もあれば、そうでないところもあります。また、連邦制をとっていても、連邦の中には多層なレベルの政治行政体があるわけです。それならまだわかります。1番小さなところは数百から数千人のいわゆるコミューンと言われるものがあり、そこで自分たちの大事なことを自分たちで決めて、それを行政に反映するシステムがあるというなら別です。全くそういう話になっていない。それが、地域主権改革だとか、地方分権改革という美名のもとで議論されていることに耐えられません。

森崎:この間の話の中でも出てきましたけれども、地域主権改革というのは、いわゆるこの国のかたち改革、これと密接に結びついていると思います。民主党のマニフェストにもありましたけれども、これからの国は、外交、防衛等の機能に特化するという観点からすると、今の国の出先機関は国民の生活や暮らし、労働に密接に関連する機関が多いわけですが、こういう機関はもういらないという考え方が生じ、「国の出先機関の原則廃止」という動きになっていると見ざるを得ません。私たちは、国は人権保障の担い手、最後の砦と思っています。その意味で、この出先機関改革はかなり乱暴なものだと思っていますが、率直にどうでしょう。

白藤:国の行政や自治体の行政をみていると、たしかにさまざまな不合理・非効率があるようにみえます。少なくとも事業仕分けは、そのことをわたしたちにみせてくれたことに意味はあります。国の出先機関の行政が都道府県行政と二重行政だとか、そういうものがあるとすれば、それはきちんと見直さないといけないと思います。ただ基本的に思うのは、さきほど国と地方自治体の役割分担みたいな話が出てきたけれど、任務だとか事務だとかについて、国と地方自治体になかなか截然と分けにくい面もあります。ある事務を執行するにあたっては住民に身近な自治体がやったほうがベターなものもあるかもしれませんが、そこに任せたからもう国には責任がないという訳でもなく、国の任務とか責任は残るのです。特に労働だとか教育だとか福祉の領域に関しては、いわゆる自由権の領域じゃなくて社会権の領域、生存権の領域に関することですから、国の任務や責任がたいへん大きいわけです。だから国の任務の放棄につながるようなことにならないのかということはよく精査しなければならなりません。さもないととりかえしのつかないことになるわけですから。そこのところが大事だと思います。
もう一つ、国の責任が残るという話で言うと出先機関を通じて行政を処理しなくても、国の役割を果たせると言うことは論理的にあり得るのでしょうが、この出先機関をなくしたら、国の予算、国の赤字を減らせるのではないかといった貧困な発想から国の任務や責任の配分をみてはいけないのは当然です。この当然が、当然でない状態に陥っているのが問題です。

森崎:権限や組織を移してその内容が充実していくなら、それに越したことはないのですが、むしろ今回の「改革」の発想からするとそういう方向ではなくて、やめてもいい、なくしてもいいという方向にしかならないでしょう。また、実態面を見ても現在の行政の水準が維持できる条件はなく、大幅な後退が懸念されます。

白藤:最初の話のところに通じるところがありますが、ここまで地方が「複合的な疲弊」に陥ってしまうと、今まで仮にも国の出先機関だからやられてきたことを丸投げされて、自治体はそれをやる余裕があるのかどうか。その先には残念ながら民間化とか私化とかいわれるようなアウトソーシングの道しかないとしたなら、これは公共性だとか公的な任務というものが、どこかに放棄されてしまう。それをわかっていてやるとしたら、これは大罪です。国家はそんなことが起こらないように考える責任があるし、そういうことが起こってしまうと分かっていてそういうことを断行するとしたら、単なる政治的・行政的・道義的な責任ではすまされません。罪を負うべき責任、罪責が発生すると思います。

森崎:今回の地域主権改革は、構造改革の担い手を国家から地方自治体、特に自治体の首長へと変更するための改革であるという指摘があります。つまり、「改革」の担い手を変更し、それによってより新自由主義的な構造改革を更に進めようという動きであるという指摘です。とすれば、私たちが従事している行政の実態から、この「改革」が何を引き起こすのかということを発信することが非常に大事だと思っていて、全労働もそこをしっかりとやっていこうと思っています。

白藤:今の政権もそうだし、前政権もそうですが、「複合的な疲弊」状態に陥っている地方の現場をつぶさにみて、本当に国の出先機関の人達が担っている行政を委ねてしまって、地方にそれを十分に執行する力があるのかどうか判断することが重要です。やったけれどやれなかったと言う話にはならないわけです。

森崎:労働行政という、人間の生存あるいは生活に密着した行政の中で「失敗しました」では済みません。

白藤:経済学でいうところの制度学派、あるいは新制度学派といった方が正確かもしれませんが、そこでは制度改革における経路依存性が強調されます。どこかの改革がうまくいったからそれを持ってきたらいいとか、どこかの理論を持ってきたらいいとかという話ではなくて、それぞれの国だとか、それぞれの環境の中で、そこに固有な歴史的な成り立ちがあるわけで、そういう経路依存性というものを無視して、やみくもに一般的、抽象的な理論を適用しても、そう簡単にうまくいくわけはないということです。今のお話などは典型的な事例かもしれません。国の出先機関を全部なくしてしまって、今までの行政がきちんとなされるかの実証もなく、ただただ新自由主義的な理論、うわべの議論だけで「成功するだろう」では済まないのです。

森崎:新たな法制を構想する場合、立法事実をどう据えているのか、それを正確に捉えて制度設計するということが重要ですが、それが全く欠けていると見ています。きわめて無責任な議論です。

白藤:その無責任な議論に対抗しなければいけません。小田実氏は『中流の復興』という書物の中で「相手の悪いことを批判するのは結構だけど、批判して相手が変わればいいが、変わらないとしたら自分たちがあるべき姿を実践することに努めていくべき」という意味のことを言っています。とにかく自分たちがやって、国の出先機関としてやるからこそ、ここまでできるのであって、だからこそ、国民、住民のためにこうあるべきなのだということを実証しないといけないと思います。

森崎:私たちの職場、すなわち労働基準監督署、公共職業安定所、労働局には、日々そこに権利侵害されている人たちが訪れるわけだから、定員の削減等で私たちの職場もかなり疲弊していることは事実ですけども、そこで、長年培った専門性を発揮して、しっかりとした労働行政を展開するということが大事だと思います。
ありがとうございました。

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