働き方・労働法制 −労働時間、賃金、安全衛生、労災補償など

「安全文化の伝承」
—労働災害の防止を担う人材確保・育成の視点から—

2014年10月
全労働省労働組合
安全衛生職域プロジェク

はじめに

 労働災害による死亡者数は、1961年(昭和36年)をピークに長期的には減少している。しかし、最近の状況をみると、2009年より大幅な増減を繰り返しており、トンネルの建設工事や大規模な化学プラントにおいて一度に複数の死亡者を出す重大な労働災害が後を絶たない。 

 その背景として、企業においては、戦後から高度経済成長期にかけて労働災害の多発した時代を経験し、安全に関する知見を豊富に有する世代の多くが職場から引退していること、また、経営効率を優先するあまり、安全コストが削減され、事故は起きないとの過信も広がっていることなどが考えられる。これは、多くの犠牲を教訓に、長年にわたって築き上げてきた「安全文化」に、黄信号が点灯していることを示してはいないか。

 一方、労働災害防止を推進する労働行政においては、厚生労働省が2008年10月より「新人事制度」の運用を開始した。この制度は、都道府県労働局や労働基準監督署で安全衛生を専門に担当してきた厚生労働技官(以下、技官)の採用を停止し、労働基準監督業務に加え、安全衛生、労災補償のすべてを労働基準監督官の所掌とするものである。しかし、安全衛生業務の専門家育成を停止することは、労働行政の専門性を著しく低下させ、「安全文化」の黄信号を赤色に変えはしないか。

 「安全文化」の劣化が懸念される昨今の状況を克服し、これまで築き上げた「安全文化」を伝承するには、いま何が必要なのであろうか。

 

「安全文化」とは

 「安全文化」とは、1986年のチェルノブイリ原発事故を契機に使われはじめ、現在では労働者の安全と健康を最優先する企業文化として定着している。わが国で頻繁に使われ始めたのは2000年頃からである。1999年には、ウラン加工施設の臨界事故、H−2ロケットの打ち上げ失敗、鉄道トンネルにおけるコンクリート落下事故等が相次いで発生したことから、関係省庁からなる「事故災害防止安全対策会議」が設置され、同年12月に報告書が取りまとめられた。報告書では、「安全文化」の創造、すなわち、安全な社会を最優先する気風や気質を育て、社会全体で安全意識を高めていくこと等が指摘された。

 2000年3月には、労働省(当時)労働基準局長通達「『安全文化』の創造に向けた取組の促進について」が発出されており、労働災害の防止のため、行政と関係者が緊密な連携・連絡を確保し、「安全文化」の創造に向けたとりくみを積極的に促進することとされた。

 「安全文化」を考える上で、注目すべき指摘がある。2006年の中央労働災害防止協会 「安全文化醸成のための方策等に関する調査研究報告書」は、労働災害防止に積極的にとりくむ安全衛生レベルが高い事業場、すなわち「安全文化」が醸成されている事業場の特徴を次のとおり指摘している。一つは、「トップが安全衛生を重要視し、社是や事業場の方針等における安全衛生の重要性の明示、安全衛生の方針の表明等を行い、自ら安全衛生に関する指示や発言を積極的に行うとともに、安全衛生に関する人材・予算を確保すること」、そして「安全衛生スタッフと現場との間の双方向の情報伝達等をよく行い、安全衛生スタッフが現場からよく協力を得られること」である。報告書は、トップの姿勢とともに、安全衛生スタッフの重要性、言い換えれば人材育成がいかに重要かを指摘している。

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行政研究活動

 全労働省労働組合(略称、全労働)は2012年11月、「第23回労働行政研究活動」の一環として、「安全衛生職域」の調査・研究を行った。その際、都道府県労働局や労働基準監督署で安全衛生業務に従事する技官や労働基準監督官の組合員を対象にアンケート調査を実施した。この中で、アンケートの「漸次減少してきた労働災害が増加に転じ、重篤な労働災害が増加している原因」の問いに対して、最も多い回答は「労働者の安全教育を含めた安全技術の継承が不十分なこと」、次いで「発注者下請重層化による安全関係コストの削減」、「安全衛生管理体制の不備および安全衛生スタッフの質の低下」となっている。「安全教育が不十分なこと」に関わっては、教育を行う側の安全衛生スタッフの知識や能力不足が懸念され、「安全衛生スタッフの質の低下」とともに、安全衛生を担う人材確保の問題に多くの回答が寄せられる結果となった。

 これらを踏まえ、安全衛生職域の研究レポートでは、労働災害が増加に転じた原因の一つに、労働者に対する安全教育が不十分なことを指摘した。労働安全衛生法は、労働者を雇い入れた際に、その労働者が従事する業務に関して、安全又は衛生のための教育を行わなければならないことを定めている(第59条)。こうした教育は、労働災害を防止する上で最も基本となり、安全教育の不十分さは労働災害の危険性を増大させる。企業において安全教育の中心的な役割を担う人材である安全衛生スタッフの質が下がれば、おのずと安全教育の質は低下し、労働災害の増加に直結する。

 さらにレポートは、安全衛生スタッフの質が低下した原因として、環境の劇的変化を指摘した。具体的には、従来の安全衛生スタッフは、労働安全衛生を中心とした業務に就いていたが、人員削減等により環境やISO(国際標準化機構、もしくはそれによる国際規格)なども兼務するようになっている。また、経験豊富な人材が定年退職等により職場を去った後、十分な知識や経験を有しない者が、新たに安全衛生スタッフに就くケースが散見されることを指摘した。

 このように、安全衛生の担い手が他の多くの業務を兼務すれば、労働災害防止に投入できる業務量を必然的に減少させる。労働災害の悲惨さを知らない事業主や安全衛生スタッフは、災害がないのが当たり前という、安全に対する過信を生みやすい。このような実態は、労働災害防止対策の重要性を深く認識しない企業風土を形成し、労働災害のリスクを過少評価して、必要な安全コストの削減に至らせる。最近の重大な労働災害の頻発について、こうした背景を直視すべきである。事態を克服し、「安全文化」を醸成するには、十分な知識・経験を有する人材の確保・育成が極めて重要かつ喫緊の課題である。同時に、安全衛生スタッフが労働災害防止の職務に専念できる体制を構築することも不可欠である。

第23回労働行政研究活動レポート[安全衛生職域]

 

労働行政の「リスクアセスメント」

 労働災害防止に向けては、職場の潜在的な危険性や有害性を見つけ出し、これを除去・低減するための手法として、リスクアセスメントを重視し、積極的に活用している。全労働は2014年1月、リスクアセスメントの手法を用い、労働行政内部の安全衛生を担う人材確保の問題について分析することを試みた。その結果、新人事制度により安全衛生業務の専門家の採用・育成を停止したことが、労働行政で長年培ってきた労働災害防止に係る専門性を急速に低下させている実態を浮き彫りにした。具体的なリスクとしては、本来、行政が担うべき労働災害防止に係る指導が十分にできていない現状を指摘し、「労働行政が脈々と築き上げてきた安全衛生業務の根幹を揺るがしかねない深刻な懸念」と分析した。その上で、リスクの低減策として、「行政内部に専門的・技術的観点から労働災害防止対策を推進する人材の採用・育成を再開すること」を指摘した。行政研究活動におけるレポートが企業における安全衛生を担う人材確保の問題を明らかにしたが、労働行政内部にそれと同様の問題が存在することは、極めて憂慮すべき事態である。労働行政においても、専門性を有する人材の確保・育成は喫緊の課題であり、早急に対処すべきである。

安衛職域リスクアセスメントシートとりまとめ結果

安衛職域リスクアセスメント分析結果の概要(全労働省労働組合2014)

 

「安全文化の伝承」に関わる提言

  日本国憲法は、第25条第1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定し、労働安全衛生法第1条は、目的として「(前略)職場における労働者の安全と健康を確保する(後略)」と規定している。すなわち、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営むためには、職場における安全と健康が確保される必要があり、そのために労働安全衛生法が制定された。そして、こうした法律の目的を具体的に実現すべく「安全文化」を伝承してきたのが、労働行政・安全衛生業務に携わる職員である。

 しかし、これまで述べてきたように、その「安全文化」の伝承に黄信号が点灯し、労働行政で長年培ってきた労働災害防止に関わる専門性が急速に低下してきている。これはまさに憲法で規定する「健康で文化的な最低限の生活を営む」権利が侵害されている状況と言わざるを得ない。

 全労働は、労働行政の専門性を確保し、「安全文化」を伝承していくため、ここに新人事制度の抜本的見直し、厚生労働技官の採用・育成を直ちに再開することを提言する。

 

おわりに

 重大な労働災害が後を絶たない現在、労働災害の減少をはかるためには、労働者の安全と健康を最優先とする「安全文化」をあらためて醸成・定着させ、さらに次の世代に適切に伝承させていくことが求められる。そこでは、労働災害防止に携わる人材に関する現状を変えていく視点を持つこと、すなわち、十分な知識と経験を持った安全衛生スタッフを確保し、安全衛生関係業務に専念できる環境を整備し、不断の継続的な人材を育成することが不可欠である。

 戦後から高度経済成長を続ける時期に、労働災害が多発する中にあって、企業と労働行政はともに安全衛生の人材を育成し、相互に連携しながら労働災害の危険性を一つひとつ取り除き、「安全文化」を育ててきた歴史を忘れてはならない。

 企業においても、労働行政においても。

 

《参考》

※2014年3月 全労働省労働組合 第23回労働行政研究活動レポート[安全衛生職域]

※2014年8月 全労働省労働組合「安衛職域リスクアセスメントとりまとめ結果」

 

 

以上