全労働の活動・とりくみ

2010年 3月
シンポジウム
勤労者の働く権利と労働組合の課題 〜日本国憲法の視点で問題提起する
弁護士 笹山 尚人

全労働は3月1日、学習会を都内で開催し、東京法律事務所の笹山尚人弁護士に「勤労者の働く権利と労働組合の課題」と題した講演をいただきましたので、本誌で内容を紹介します。

1 公務と公務分野の労働運動に求められるもの

弁護士の笹山です。講師の笹山弁護士

私の父親は、いま71歳ですが、北海道開発局で40年近く勤務した国家公務員でした。みなさんとはその意味でまずご縁を感じます。

また、平成18年4月から、労働審判制が始まったのですが、私が最初に担当させていただいた労働審判事案は、国公一般(国家公務員一般労働組合)の事件でした。会社側から起こされた不当な事件を担当したことから、国家公務員、国公労連の皆さんとのつながりができました。

実は、これから話す「憲法を考える意義」を通じて、私は、もっと皆さんとお付き合いをさせていただきたいと思っています。

私は、弁護士になってもうすぐ10年になりますが、東京法律事務所に勤務し、さまざまな労働組合や労使の事件を担当させていただきました。

この10年間ずっと労働事件に携わってきて、特に先ほどご紹介いただいた本(『人が壊れてゆく職場』光文社新書、2008年7月)を出版して以降は、労働事件の依頼が激増しました。

昔は、解雇するとしても、それらしい解雇理由をウソでもデッチ上げてくるのが普通でした。最近は、「外資の親会社がそう言っているから仕方ない」と裁判の席で堂々と日本法人の社長が述べるといったような、恥も外聞もない、労働者の踏みつけが行われるようになってきていると感じます。とにかく労働者が低賃金や劣悪な労働条件に置かれ、労働法制がまったく守られていない現状に苦しめられる。労働者の痛み、苦しみが、よりひどく、根深くなってきているというのが、この10年間労働事件を担当してきての感想です。

昨年8月に総選挙があって政権交代が実現をしました。この時の民主党のマニフェストについて、「民主党はもともと構造改革を推進する政党として生まれたが、あのマニフェストの時点では、反構造改革の政党に変貌した」というような意見があります。しかし、本当にそうなのか、私は疑問に思います。

確かに、労働者派遣法や子ども手当とか、一部の政策は間違いなく、痛めつけられた暮らしを立て直すために、また、より家計が温かくなるような政治を実現してほしいという国民の声に答える、反構造改革に基づく政策を盛り込んだ内容といえると思います。

しかし、構造改革の動きというのは、実はまったく止まっていない分野があります。それが公務の分野だと思います。地方自治体の職員を組織する自治労連の事件を、数年前から担当させて頂くようになったのですが、自治体に対する民営化の攻撃は加速度的に進んでいますし、このマニフェストの前後で、まったくそうした流れは変わっていません。今回、学習会をお受けするにあたって、全労働からいろいろ資料を提供していただきました。その中で、国の公務の現場においても同じような問題が根深く進行していると知りました。

労働行政の問題で言えば、労働局やハローワークの地方委譲、縮小など、本来、厚生労働省が国のナショナルミニマムとして担っていたはずの機能をどんどん地方に委ね、地方自治体が独自のスタンダードをつくり、ナショナルミニマムが無くなっていくという問題が労働行政の職場で起こってきていることを知りました。

考えてみれば、地方自治体に対してだけ公務に対する攻撃がおこなわれるはずがないので、おそらくは国土交通省や法務省の職場の中にも、そういった攻撃が何らかの形で進んでいるのだろうと思います。

この流れを見ると、構造改革路線は、少なくとも公務の分野においてはまったく止まっていない。むしろそれを加速させ、その動きが国民の知らないところで根深く進行している。

では、この国の労働者、憲法の言葉で言うと勤労者にとって、それが幸せな事態なのだろうか。そして、いま公務に携わっている勤労者、公務員の皆さんにとって本当にいいことなのか。皆さんの仕事に関わるナショナルミニマムは維持しなくていいのか。役割は終えたのだと言えるような段階なのか。そもそも、ナショナルミニマムを無くすということが理念的に許されるのか。

結論を申し上げれば、いま憲法が持っている価値や理念は、まったく世の中においては実現していない。憲法の価値や理念の実現のためには、ナショナルミニマムの保障が必要であり、そのために公務労働が果たす役割があり、そのために必要な労働条件がある。しかし、そのことが十分に国民に知らされていないと思います。

ですから、公務や、公務の分野での労働運動を担う皆さんの仕事は、はっきり言ってまだまだこれから、と強く思いますし、現在かけられている構造改革路線の攻撃に対して、全労働をはじめとする国公労連は全力を挙げて立ち向かわなければなりません。私も労働運動に関わる者として、力を尽くさなければならないと思うところです。私がみなさんと更に一層ご縁を深めたいというのは、この意味です。

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2 「現状」からではなく「憲法」から発想する必要性

 

今日は、みなさんの仕事や、労働運動について、改めて憲法の視点で検証しようというテーマですから、主題である憲法の問題に入りますが、まず「憲法」からものごとを考える必要性についてから、お話ししたいと思います。

世の中が今どうなっているのか、どうあるべきかを考える際に、別に憲法から考えなくてもいいじゃないか。「現状」がどうなっているかを分析し、その対応策をとにかく思いつく限り考えていけばいいじゃないか。憲法なんていう、いわば雛壇にあるものは、とりあえず脇においておけばいいじゃないか。四の五の言わずとにかく経済を動かさなくてはならないのだから、憲法だ、権利だと甘いことを言うな、「現状」を直視しろ、ということを言われる方もいっぱいいらっしゃると思います。

こうした「現状」論には、私なりに三つの反論をします。

一つ目は、憲法こそ、一人一人の国民の不幸という「現状」に心を寄せる存在であり、「現状」のための法であるということです。

例えば、路上で明らかに医療が必要な状態で倒れている人を発見したとします。その人を放置していたら命の危険がある。この時に、どうしてこの人がこういう状態になったのか、この状況に至るまでに何が起こったのか、ということについて、いちいち議論をしたり、分析をしたりという暇はおそらくありません。原因や経過はともかく、今この人の命を守らなければいけないので、「まず救急車だ」となるのが普通の人の思考方法だと思います。

こういう普通の人の思考方法は、実は、正に憲法の価値そのものなのです。

日本国憲法の第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福に追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。

私が司法試験を受けた頃は、憲法でただ一つ重要な条文を上げろと言われたら、それは13条だと学びました。憲法にとっても最も重要なことは、「個人の尊厳の確保」です。この第13条に書かれているように、一人ひとりの個人が個人として尊重されて、生命や自由はもちろん、幸福追求に関するさまざまな権利というものが最大限に尊重される。人がただ人であるというだけの理由によって持つ価値のために、国はあらゆる手段を講じなければならないし、そういった自由を侵害してはならないということを規定しているのが憲法であると学びました。

この観点から、原因や経過はどうだっていいから、とにかく今そこで困難にぶつかっている人の不幸という「現状」に対して、その人の自由、価値、平等といったものを実現するために、国は全力を尽くさなければならないと考えるのが憲法の発想だということです。

ですから、私たちが労働者の基本的な権利等を考える時に、憲法を抜きにして議論をすることはあり得ないというのが第一の反論となります。

二つ目に、憲法を無視した社会や政策は、かなりの大きな弊害を生じさせるということが、歴史の教訓に照らして明らかであるということです。

この世の中には力の強い人と力の弱い人が存在し、憲法を無視しそのままの状態においたら、当然、力の強い人間が力の弱い者を虐げることになってきます。職場の問題こそ、まさにそうですよね。使用者と労働者とでは、どうしたって使用者のほうが実際の力は上です。使用者は働く人間を選びうる立場にありますが、労働者は、働かなければ生きていけませんから。経営が厳しいという「現状」に対して何か手を打とうと考えた時、すぐ思いつくのは、「誰かのクビを切ろう」ということです。「現状」に思いつく手をうつ、というやり方をして、結果として起こるのは、力の弱い人間の尊厳が奪われる、命が奪われることにつながる、ということです。

三つ目に、「経済活動を優先するために四の五の言ってられない」という人は、改憲を求める市場原理主義を信奉する企業家に多いのですが、このような人たちに対しては、ヨーロッパやアメリカでは、憲法の理念やそれに基づくさまざまな規制を受けながらも、グローバル競争の中で、現に勝ち抜いている企業や国もいっぱいあるという事実を対置したいと思います。日本だけ憲法のことを考えずに、企業が自由競争の中で好き勝手にやらなければ立ち行かなくなるということは事実としてあり得ない。もし、立ち行かないのであれば、企業家の工夫が足りない、ということを、私は言っておきたい。

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3 立憲主義における憲法の誕生

憲法というのは何を考えて作られているのか、労働の権利に関することを中心をおいてお話をさせていただきます。

まずは立憲主義のお話からさせていただきます。

そもそも立憲主義が誕生した頃はどういった時代背景であったのか。

いわゆる封建社会の時代です。この当時は、身分制でしたから、身分の上下によって社会的な秩序が保たれるという時代です。国王が絶対的な権力を保持して臣民を支配するという時代です。

こうした時代に、国王から支配をされる貴族階級が何とか自分たちの利益をしっかりと守りたいと考え、そのために国王を自分たちの意向に従わせるためには、どうしたらいいかということで、国王といえども従わなければいけない高次の法(=憲法)があるという理屈を持ち出して国王の権力を規制しようとしたのがはじまりと考えられています。

ただ、これは貴族階級が自分たちの利益を代弁するために生み出した方法でしたので、一般の臣民、農民や商人たちにまで影響が及ぶものではありませんでした。立憲主義が、広く国民の権利や自由の発展に寄与させるためには、いわゆる近代自然権思想というものと結びつけられる必要があったと言われています。

この近代自然権思想は、「人間は生まれながらにして自由かつ平等で、生来の権利を持っている」、「その生来の権利を確実なものにするために政府と社会契約を結び、政府にその権力の行使を委任する」、「委任した権力を政府が恣意的に行使したら、異議を唱え政府に対して抵抗する権利がある」という、ロックやルソーが唱えたものです。

こういう思想は、現在の合衆国憲法やフランス人権宣言、フランス第一共和制憲法といった18世紀後半に生まれた立憲主義の考え方に昇華していったと言われています。

以上の経緯を踏まえて、立憲主義における憲法の意味とは何かと言えば、単に国の最高規範であるというだけに止まらず、実質的な意味として、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障することと言われています。

日本国憲法がこの立憲主義に基づいて定められていることは、実は明文上明らかです。それは、第97条、第99条に規定されています。

第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権」について、過去の歴史の所産として、侵すことのできない永久の権利として保障する、そのために憲法がいま存在するのだとわざわざ言っています。

同じことが、前文でも、第13条でも書かれているわけですから、第97条で繰り返す必要がないはずですが、「最高法規」という章の表題のもとに、「なぜ憲法が最高法規足りうるのか」ということの根拠として説明されているのです。これを受けて、「最高法規」である憲法を、権力はどうしなければいけないのかということについて、第99条が「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負ふ」と書いています。

私は、講演会などで立憲主義について説明するためにこの第99条を紹介する時に、「この第99条には大切な言葉が入っていないことをお気づきですか」とみなさんに尋ねています。みなさんはお気づきですか。「国民」という言葉が主語に入っていないですね。実は、そうなのです。

『読売新聞』が、1992〜93年頃に憲法改正私案を掲載した時に、「国民が憲法を守らなければならない」と書いていました。これは、近代立憲主義をまったくわかっていないと、当時私たちは批判しました。

近代立憲主義のもとで憲法を守らなければならない人たちとは誰か。

それは権力を行使する立場にいる者です。権力に携わる人間こそ、憲法の中身をよく理解し、それを実現するために奮闘し、それを侵すことがないように尊重し、自分たちの権利を抑制的に行使しなければならないと肝に命じていただかなければならない。第99条で大事なのは、天皇、摂政、そして権力を行使する国務大臣、国会議員、裁判官と具体的な存在を上げ、さらにその他公務員ということで、皆さん方も憲法を守らなければならない立場と規定されていますが、99条の主語に「国民」がない、このことこそ、この憲法が立憲主義にもとづいて権力を規制していることの端的な現われと言えます。

ですから「国民が憲法を守る義務があるのか」と言えば、極端な言い方をすれば「ない」のです。国民は、憲法によって、権利を行使し、利益を受ける存在なのですから。

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4 産業革命と労働法

もう少し立憲主義に基づく憲法が、どんな経緯で制定をされているのか、歴史的な背景や社会背景から振り返ってみます。とりわけ労働基本権の部分に注目をして説明するために、話を産業革命からはじめていきます。

産業革命が起こり、イギリスを中心に急速に資本主義が発達します。この時期に発生する思想が、資本主義にとってなくてはならない契約自由の原則です。現代でも大原則になっている考え方で、どう契約しようと当事者間の自由、そうして決められた契約内容にのみ当事者は拘束をされるという原則です。

この契約自由の原則が、労働者と使用者という関係では、労働者を逆に縛っていく機能を果たすのです。労働者にしてみると、「自分の賃金をいくらにしろ」、「自分の労働時間を何時間以内にしろ」とは、理屈の上では要求できるはずですが、実際上は要求できない。これは、現在の多くの労働者にとっても同様です。特にこういう不況の時代ですから、「こう言う労働条件で働いてもらいたい」と書かれたハローワークの求人票を見て、それを呑むか、呑まないかしかない。「この時給は不満だからもう少し上げてくれ」、「こんな遠い所に行きたくない」、「こんな業務には従事したくない」など、契約自由の原則なら、本当は取引できるはずですが、実際上はできないのが現実です。

このように真に自由な取引ができないという状況下で、労働者は、どんどん劣悪な労働条件・環境を、形の上では合意しながら受け入れざるを得ないことが続いていきます。

当然、こういった事情をきちんと理解した労働者には、だんだんそういう不公平な取引は呑ませづらくなっていきます。どちらかというと「イエス」と言わせ易いのは、力の弱い女性や経験の少ない子どもたち。そういった人たちを労働者として働かせるほうが、使用者には使いやすいということになってきます。産業革命によって技術力が進歩し、力が弱く経験の少ない者でも、機械を使えば生産性を上げることができるようになったことも後押ししました。

そういった中で、長い労働時間、劣悪な労働環境におかれた女性や子どもたちがバタバタと死んでいったり、結核等の伝染病が流行るという弊害が起き、工場法や災害救助法と言ったいわゆる労働法ができていきます。

また、労働者自身が団結をするということの重要性もすごく認識をされて、労働組合法といった法令もあわせて発展していくのが労働法の発展の歴史です。

この急速に資本主義が発達していく時期は、先ほどの近代権自然権思想にもとづいて、憲法というものが考えられていった時期と合致します。

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5 ILO憲章から日本国憲法へ

憲法にいたる道筋としては、第1次世界大戦後の1919年に、ILO(国際労働機関)ができたことも無視できないと思います。

ILO憲章の前文では「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」と始まっています。そして、「世界の平和および、協調が危うくされるほど大きな社会不安を起こすような不正、困窮、窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在する。そのことを無くすことが急務である」と言っています。

この前文の問題意識は、とても面白い。

1919年に結成されたILOは、なんといっても第1次世界大戦の反省を踏まえてできている国際機関です。なぜ戦争が起こるのか。不正や困苦や窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在するからであり、それを改善することが急務だと言っているわけです。

ILOは現在に至るまで、繰り返し繰り返し、ILO憲章の精神が今に生きることを、条約や勧告を作るたびに言います。この認識は、1919年に組織が発足してから現在に至るまで一貫して変わっていないことを知っておいていただきたいと思います。

約めて言えば、人々が困るような、人権保障に向けて不十分な諸条件があるからこそ戦争が起こるんだと、平和と人権の問題とが結びつけられていることが、ILOの特徴的な考え方です。 こうしたILOの考え方が、ワイマール憲法やアメリカのワグナー法に反映され、社会権思想が発展していき、第2次世界大戦の痛苦の経験を踏まえて、日本国憲法が1947年に誕生し、そして施行へとつながっていきます。

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6 日本国憲法の構造

このように歴史を踏まえて考えてみると、なぜ日本国憲法が現在の法典構造になっているのかということが非常によく理解できると思います。

憲法自体は、第3章に非常に豊富な人権規定を書いています。そして、それを保障するために統治の基本原則という形で、国会はどういう権限をもっているのか、内閣、裁判所、そして地方自治体はそれぞれどういう役割を果たすべきかということが順に書かれている。

なぜ、この憲法のそもそもの目的である人権規定が3番目の章なのか。第1章は時代の制約だと思いますが、天皇をどうするか、当時の日本では決めないわけにはいかなかった。日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形式をとりましたが、大日本帝国憲法の第1章が天皇です。そこで改正にあたっては天皇については、第1章の内容の変更という形を取った。内容としては、現行憲法第1章は、天皇を非常に抑制的な立場に置くということにしたのです。

第2章は、皆さんご存じの第9条です。

先ほど紹介したように、ILOは人権が守られないから戦争が起こると最初に考えたわけです。逆に、人権を豊かにしようと思ったら、戦争をしないことが必要となる。戦争をしないことが人権の保障にとって究極の大前提だからこそ、第2章として、第3章の前に置かれているのです。このように考えると、第2章の戦争の放棄が第3章の前に置かれているということは、象徴的な意味合いがあると思います。

このように憲法は、第97条、第99条で立憲主義の立場をとっているだけではなく、まず戦争はしないという絶対の前提をおいて、そのことを担保として、第3章に人権思想を配置したのです。

第3章の内容を見ていきます。

実は、憲法の人権規定の中で、最も充実している分野は、刑事事件関係です。第31条から第40条まで10箇条を費やして刑事事件について書いています。第二次大戦の頃、如何に国民が刑事事件で弾圧をされたのか、そのことを痛苦の反省とし、「被疑者にも被告人にも弁護人を選任する権利がある」、「令状なしに身柄を拘束することはできない」、「公平で公正な裁判所の裁判を受ける権利がある」と具体的に規定しています。

第11条から第29条までは、本来的な意味での自由権を中心に組み立てられていますが、個別の分野については実にそっけなく書かれています。「思想および良心の自由」や「表現の自由」など1箇条しかない。沿革的にいえば、「集会・結社の自由」と「表現の自由」は違う自由なので、本当は第21条で「集会・結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」と一文にまとめられて書かれているのはおかしいといえばおかしいのです。ILOでは「集会・結社の自由」は一生懸命主張されますが、「表現の自由」はあまり言わない。

このように、それぞれの自由がそっけなく書かれていますが、人間がこれから生きていこうとする時に、非常に根本的ないろいろな内容が書かれていますし、戦後の様々なたたかいの中で、これらの自由の具体的内容が発展をしています。

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7 勤労権、労働基本権の規定とその性格

さて、その中で、勤労権と労働基本権についてを定める、第27条、第28条について考えていきたいと思います。この2つの条文は、文面としては、とても簡単なことが書かれています。

第27条1項には、「すべて国民は勤労の義務を有し、義務を負ふ」とし、働くということ自体が人権だと定められています。

同2項では、「勤労に関する基準は、法律でこれを定める」としています。法律、すなわち民主的な機関で定められなければ、労働者の勤労条件は豊かなものになっていかないという歴史の反省にもとづいて定められています。だから、法律で定められた勤労条件を守ることが、ナショナルミニマムとして必要ということになっていきます。憲法27条2項がある限り、勤労条件に関する法令をナショナルミニマムとして守り、その法令を実効的なものとするための労働行政が絶対に必要となります。このことから、私は現在、構造改革路線が進めている労働行政に関する地方分権のような話は、憲法第27条2項に違反すると思います。

同3項は、歴史的な説明で申し上げたように、年少者が好んで酷使をされたという歴史の反省に裏付けられて「児童の酷使を禁止する」という規定になっています。現在では非常に奇異な規定に見えますが、憲法制定時は非常に重要な規定だったと思いますし、今でもその価値は基本的に変わってはいないと思います。

次に、第28条には「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」と書かれています。

憲法で「団体行動を保障する」とまで規定している国は、実はすごく少ないことをご存じでしょうか。確か、イタリアとドイツと日本だけだと思います。憲法に「争議(ストライキ等)をやってもいい。それが人権なんだ」と書いているのは、あまりメジャーなことではありません。

このように、第28条では団結権だけではなく、団体交渉や団体行動する権利もあるとまで宣言をしているという意味で、日本国憲法は非常に画期的と言えます。

これらの権利の性格ですが、自由権としてこうした権利を行使するときに、立法その他の国家の行為が権利行使を妨げてはならないという意味が存在するということが、まず一般的です。

これは他の権利、特に、思想、良心の自由や信教の自由、集会・結社・表現の自由などについても言えることですが、まず国は、「権利として自由に国民が行使できるものを遮ってはならない」という意味が本来的な意味での自由権だとされていますから、労働基本権についても、そうした意味合いが含まれている、これ自体は間違いありません。

ただ、先ほど申し上げたような第1次世界大戦の経験でILO憲章が述べたこと、それからワイマール憲法やアメリカのワグナー法といったものの制定を受けて考えられている社会権思想の発展に照らして考えると、この第27条、第28条に規定される労働基本権には、社会権としての性格もあるとされます。

社会権とは何かと言えば、国民が国に対して労働者の労働基本権を保障せよと要求し、国が必要な施策を行う義務を負うという権利です。こうした社会権の性格があるからこそ、第27条2項の「国民は勤労の権利を有する」に基づいて、国民は、賃金、就業時間、休息その他の勤労条件を勤労の権利が充実するように施策を講じるよう要求ができ、その要求に応える形で国は法律を作らなければならず、その法律を実効化するための労働行政を運営しなければならないとなるのです。

まさに、全労働の皆さんが行っている仕事というのは、憲法の社会権実現を担っているということになるのです。

 

8 憲法の社会権規定の意味

私は、第25条から第28条の社会権には実はすごい意味があると、最近気がつきました。

第25条から第28条は、主権者としての国民が成長するのに必要な要素を必要な順番に並べた規定ではないかと私は思います。

なんと言っても人間は生きなければならない。個人として尊重される人間が、国に対してまず要求することは何か。「生きさせろ!」ということです。雨宮処凛さんの有名な本のタイトルにもなっています。国は生きるための措置をしっかりとれ、生きることについての責任が国にあるということを規定したのが、第25条です。

話が少しそれますが、最近、パワハラ事件が多くなってきていて、私の所にも相談事例が増えています。こうした事例を見るにつけ、私は、第25条に関わって、「精神的生存」という問題も含めて考えるべきではないかと考えるようになりました。第25条の生存権は、基本的には、経済的、物理的な生存を中心に解釈されてきましたが、今の職場は、労働者の人格そのものを破壊してしまうことがあります。職場の中で、人格そのものを生存させていくという課題が大事な局面になってきています。そういう状況で、人格の生存とそのための制度措置要求をするとき、憲法を根拠に考えられないかと考えたのです。 そう考えると、国民は、「職場に置ける精神の生存」措置を国に対して求めることになる。全労働の皆さんの仕事は、増えることはあっても減ることはないと率直に感じます。

さて、話を元に戻します。食べることが充足したら、次にくるのは教育です。自分が市民としての相応しい素養を身につけるために教育をさせよということです。

時々、このことが誤解されているのですが、憲法第26条では「教育を受ける権利」と書いてあり、「教育をする権利」があるのではありません。だから、学校の先生が自分の好き勝手な教育をすることが第26条によって裏付けられるのかといったら違います。では、第26条が定めていることは何か。「その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する」と条文にあるように、自分自身が自分の発達の度合いに応じて、いま必要な教育を自分に対して付与せよと要求する権利のことです。年齢や学歴等の多くの要素が異なる中で、教育とは、本来一律なものではありえません。国は個人の発達の度合いや能力や環境に応じて、この人がいま必要としている教育というのは何なのかを考え、与えなければならないというのが第26条なのです。

そして、食べた、教育を受け市民としての相応しい能力を得たとすると、次にすることは社会参加です。社会参加とは何かと言えば、その典型的な例は、労働です。

すべての勤労者が労働をする、そのことを通じて社会に参加をする。そして、この労働をするにあたっては、資本主義社会を前提にしている立憲主義の憲法ですから、強大な資本家に立ち向かうために労働者には団結権や団体交渉権、団体行動権が必要だということになる。これが第28条で付与されています。

食べて、教育を受けて、働くことで社会参加する。第25条から第28条までの社会権が十分に揃って、はじめて国民は、第1条が定める「国民主権」の主体としての「国民」になれるのです。

その意味で、第25条から第28条が充実していれば、民主主義社会として十分発達した国民が生まれるはずですし、充実していないとなれば、民主主義社会のレベルが低い国民しかいないということになってしまいます。

そして、憲法第27条、第28条では「勤労者」という言葉を使っています。この勤労者に公務員が含まれるというのは、まったく異論の余地はありません。公務員である皆さん自身も、「勤労者」として、そして国民主権を担う「国民」として、自信を持って第25条から第28条までの社会権を、皆さん自身のために要求してよいのです。

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9 憲法に応えた労働法の構造

では、第27条や第28条を具体化させる労働法令がどうなっているのかを簡単に紹介します。

労働基準法の第1条1項は、「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と述べて、労働条件は、憲法の精神を実現する内容でなければだめだとしています。

そして第1条2項に、この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから「労働関係の当事者はこの基準を理由として、労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように、努めなければならない」とあります。

労働法の教科書では、第1条2項をプログラム規定とし、労働基準法が目指すべき精神が書かれているのであって、これ自体は法的拘束力としてさほど意味を持たないと書かれていることが多いです。

しかし私は、労働基準法第1条2項の精神というのは、非常に重要だと考えています。なぜそう考えるのか。なんといっても主語が大事なのです。「労働関係の当事者は」と書いてあります。労働基準法はあえて、「労働者は」とか、「労働者及び使用者は」という言葉づかいを避け、「労働関係の当事者は」と書いています。私は、この労働関係の当事者に、労働弁護士も入ると自分なりに解釈しています。当然、使用者と労働者は入る。そして、労働組合も入る、ということが重要です。

さらに、1条2項は、労働基準法を下回ってはいけないのは当たり前であり、「その向上を図らなければならない」としています。

 当事者として労働組合が労働条件に関わる場合として、労働協約を結ぶ場合があります。労働協約については、労働基準法第92条1項で「就業規則より法的効力が高い」と明記されています。つまり、労働組合が一生懸命に団結権を行使して頑張って、使用者との間でなんらかの約束を取り付けたら、それは法令に反しない限り、職場で最高の規律になると明記されているのです。

労働法の構造は、労働基準法で労働者の最低限の生活を確保するための措置を定め、第101条及び第102条にあるように、労働基準監督官に必要な監督権限も与えています。そして、労働基準法を超える労働条件については、労働関係の当事者が実現するように努力せよとあり、その例として労働協約ができた場合には、それには高い効力を与えるとなっているわけです。こうしてみると、労働法は、全体として労働組合には高い役割を持たせていることがわかります。

労基法1条2項が重要だというのは、こうした構造下で、高い労働条件を実現する主体として労働組合が位置づけられていると考えるからです。

そのことは、労働組合法の構造にも見ることができます。労働組合は労働組合法によって保護されている存在です。重要なのは民事免責と刑事免責です。労働組合法第8条に、労働組合は、ちょっとやそっとのことでは、賠償責任は問われないし、刑事責任も問われないと書いてあり、憲法第28条の内容がこうした形で実現されています。

この労働法の構造から見て、2つのことがいえます。

一つは、労働組合に期待されている役割は非常に大きいということ、いま一つは、最低限の規律として労働基準法がしっかりと守られていることがとても大切だということです。あわせて、最低限の勤労条件を実現する意味で、刑罰(司法警察)と行政監督の権限を持つ労働行政も非常に重要だといえます。憲法27条、28条は、労働法においてはこのように具体化されているのです。

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10 憲法、労働法による労働行政の位置付け

ILO81号条約の第16条に「各国の労働行政において、労働行政を監督する人は、事業場を頻繁且つ完全に監督を実施しなければならない」と書かれています。この81号条約を日本は批准しています。つまり労働行政は、頻繁かつ完全に監督できるようにしなければならないことは、実は国の方針なのです。これ自体は憲法の理念にかなった考え方だと思います。

私たちは、労働法の構造とILO81号条約を合わせて考えて、労働行政の充実というものを、憲法が求め、国が基本方針として応えているものなので、実現すべきだと求めていかなければならないと思います。

ILOに関してもう一つ申し上げると、近年のグローバル競争を受けて、「公正なグローバル化のための社会正義に関する宣言」が2008年6月10日に採択されています。

この中でILOは、ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)をグローバル経済の下でも、すべての締約国で実現しなければならないと繰り返し言っています。さらに、労働行政監督機能については「雇用関係の認定、良好な労使関係の促進、効果的な労働監督制度の構築など、労働法および制度を効果的にする必要がある」と触れています。労働監督制度の充実を求めることは、ILOの主張に即しています。

ですから、最初に問題提起した労働行政の地方分権化を求める構造改革路線は、憲法の理念から考えてみれば、全く間違っている、ということになります。憲法の理念をしっかり実現していくため、労働行政は、ナショナルミニマムの実現のために求められているのであり、全国どこにいても労働者が権利を確保できるというスタンダードを守るため、行政組織がしっかりと存在し機能しなければならないということがいえるのです。

そして、このことが憲法によって位置づけられていることから、労働行政を担う国家公務員というものは、絶対に必要だということになるのです。

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11 現実社会において労働行政は必要なくなったのか

ただ、現実の労働社会が、それほど問題なく動いているのだったら、すなわち憲法27条と28条及びそれを具体化している労働法の意図するとおりのことが社会に実現しているのなら、労働行政は必要ないということになるのかもしれません。憲法の目指すナショナルミニマムが十分に実現していて、今、労働行政の役割が、地方のそれぞれの実情に基づく監督だというのなら、構造改革路線の提起は現実認識に基づくものといえるのかもしれません。

では、我が国の現状について、皆さんどう思いますか。

お仕事を通じて実感されていると思いますが、実に悲惨といっていい現状と思います。まさに、公設派遣村等で支えなければ生きられない状況があり、皆さんが窓口で実感しているように労働者の働く権利がどんどん破壊され、団結権も奪われているという実態が進んでいます。憲法27条、28条と労働法の目指す価値は、全く実現されているとはいえないのです。

私自身が関わっている事件からも、ナショナルミニマムを実現するレベルでの労働行政が必要とされていることは明らかだという気がします。

例えば、「うちの会社には労働基準法は導入されていませんので」と言う会社の社長さんが全然珍しくない。

ある飲食店では、アルバイトに対して、変形労働時間制を導入していることを理由に、時間外割増賃金の支払いを逃れていました。さらに、店の空いているときに予定外の休憩を指示し、忙しくなると休憩中でも呼び戻すということをしていました。結局、店から出された休憩中のアルバイトは、店の入り口の見える場所に立っていて、店が混んできたなと思ったら自分から戻るそうです。休憩中は無給なので、アルバイトからすると、実質的な休憩が取れないだけでなく、勤務日にどのくらいの時間を拘束されて、どのくらいの賃金が貰えるかわからないという不安定な状況に置かれます。現在、この事案は裁判中ですが、その中で、社員である店長には本社から売り上げに対する人件費割合が示され、それを超えると自身の評価が下がったり叱責されるということになる、このために違法な労務管理が行われていたことが明らかになりました。しかし、会社は「変形労働時間制の単位期間の問題」等と理由にならない主張を繰り返しています。(※下記参照)

また、高校生がバイトを辞めるときに「お前が辞めると人件費がかかるから」といって200万円を高校生に請求した店長がいました。その店長には「こんなことは法律上許されません。期間の定めのない労働契約は、労働者側からは自由にいつだって解消できます」と通告しました。しかしその店長はこのくらいの労働法の基本を知らなかったのです。

さらに、犬の訓練施設でドッグトレーナーという形で使われている労働者の事件もあります。「スタッフ」と呼ばれ、月に10万円そこそこの賃金しかもらえないのです。実態からすれば間違いなく労働者なので、最低賃金以下の賃金は違法だと裁判をしているのですが、会社側の弁護士が書いた準備書面には、「この業界ではどこでもやっていることだ。うちの会社は月10万払っているのだから、まだましだ」と書いてありました。

特に中小の企業の経営者に多いのですが、「200万なんか払う根拠はない」とか、「就業規則に書いてあるんだから、ちゃんと年次有給休暇を与えろ」などと交渉で求めると、最後に「なんでうちだけ」とか「どこでもやっているじゃないか」と言う。

こうした実態がある中で、労働基本権が守られている、最低労働基準が確立されていると言えるでしょうか。

先程紹介した飲食店の変形労働時間制の裁判で原告は、変更労働時間制の是正や時間外割増賃金の取り戻しが目標なのではなく、非人間的な働き方がまかり通っている現状を広く社会へ明らかにしたいと言いました。

労働法違反が横行し、人間を尊重する思考がまったくない職場が増えています。そこを正す労働行政の役割は、少しも失われていないのです。そのことを皆さんに知っていただきたくて、いくつかの事例を紹介しました。

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12 「法人」に対する労働行政の役割

私は、「どこでもやっている」「何でうちの会社だけ」という主張がまかり通る世の中にしてはいけないと思います。

その根拠を二つほど紹介します。

日本国憲法の解釈論に、法人の人権享有主体性という論点があります。企業などの法人は人権の享有主体かという問題ですが、これについては有名な八幡製鉄所事件で、結論としては人権享有主体性はあるという判断が出ています。八幡製鉄所事件は、法人が政党である自民党へ政治献金を行ったことの違法性を問われた裁判ですが、最高裁判所は「法人として人権があるから政治献金もできる」と判断しました。

私は、法人が人権の享有主体足りうるという一般論そのものには異論を唱えるつもりはありません。しかし、生命を持ち、本来的な人権の享有主体として想定されている自然人との違いについては、きちんと区分けしていくべきではないか、という問題意識を持っています。

法人というのは、そういう法主体を設定しなければ法社会にとって不都合だからそうしているだけであって、自然人のように生まれながらに、本来的な人権享有主体性があるのかといったらそれは違います。

法人の利益になるという結果を期待して、法人が政治献金することが横行化すると、自然人である個人に比べて、ものすごくたくさんのお金を持っている法人が政治的な民意を歪めて、自分たちの見返りを獲得してもいいんだということになってしまう。しかし、本来の民主主義社会の政治というのは、国民一人ひとりが選んだ政治家が国民のために政治をするですから、法人がその民主主義社会をお金で歪めていいことにはならないはずです。

この意味で、八幡製鉄所事件判決で言われた、「性質上可能な限り、法人は人権享有主体を持ちうる」という文言はきわめて厳格に解釈しなければならないと考えます。

労働の現場で問題になっているのは、本来の人権享有主体である労働基本権を持つ個人としての労働者です。この労働者の人権を守らなければいけない時に、法社会での便宜上法主体とされているだけの法人が、「何でうちだけ」とか「どこでもやっている」と言い訳することは許してはいけないことだと思います。「法人は、自然人の人権を守るということではじめて許される存在となる。あなた方の存在や活動を認知して欲しいのなら、労働者個人の人権は絶対に守らなければならない」ことが前提にならなければいけないと思います。

もう一つは、企業には社会的責任があるということです。企業が社会に存在が許される以上は、その存在を許した社会に対して、きちんと責任を果たさなければならない。最低限の責任としての法規の遵守があるはずです。ただ儲けを求める存在として、労働力を求める存在として、社会に存在を許してくれというのは、実に虫のいい話です。

ですから、私はもちろん実情や内情に応じて具体的な運用の手加減はしますが、「何でうちだけ」とか「どこでもやっている」という言い訳をする企業には、毅然として対応することにしています。それがどんなに非力な使用者であっても基本的には同じです。

労働行政を担う皆さんも、憲法が求める人権保障のために毅然として労働行政を運営していただきたいと思いますし、それをぶち壊す構造改革路線には反対をしてたたかっていただきたいと思います。

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13 労働組合の課題と労働組合への期待

憲法の価値を実現するために、労働組合の課題と労働組合に期待をしたいことを幾つか申し上げたいと思います。

先に述べましたように、労働組合は、憲法と労働法によって、極めて重要な役割を担っています。この役割を十分に果たすために、私は、まとめれば五つの課題を労働組合に果たすことを期待したいと思います。

一つ目は、職場を監視するという課題です。

私が担当する労働事件では、職場に労働組合がないため、違法な事態が起こっても、それを是正する術がないケースが多くあります。解雇された労働者が職場に戻れないことが、ごく当たり前になってしまう悲惨な事態です。そういったことを起こさないために労働組合は、非常に重要だと思っています。

二つ目は、監視してわかったことを告発し、改善するという課題です。

Nという美容室があります。Nの池袋にある店舗では、現在、職員全員が首都圏青年ユニオンの組合員になっています。おかげで美容業界にはびこっている、ものすごく悪い習慣が一掃されています。

例えば、この業界では、「朝、夜の練習用の水道光熱費は労働者持ちです」といって賃金から一方的に天引きする。それが5千円とか1万円とか、根拠のわからない金額になっているが文句が言えない。また、店のイベントのチケットが買い取りになっていて、そのチケット代金も賃金から天引きされる。さらに、退職したい時には、6カ月前に知らせなければ辞めさせないというおかしな就業規則が作成されている。

こうしたおかしな事態は、職場にきちんと労働組合があれば一掃されます。

職場の違法を告発して、法規の水準が持ち込まれていない職場には、まず法規を持ち込む。それも労働組合の重要な役割です。

三つ目に、美容業界のようにおかしな悪習がある業界や「名ばかり管理職」の問題のように、労働組合の運動が業界全体に大きなインパクトを与え、社会的な広がりが起こってくるという課題があります。

四つ目に、労働運動を通じ、社会運動の経験を国民に持ち込む課題です。

今40歳以下の若い世代は、とにかく社会運動を知りません。今年、日米安保改定50年と言いますが、「日米安保、何それ?」というレベルの話です。世の中に社会運動というものが普通に存在していた時代から、遠く隔絶した世代になります。

ですから、何かおかしなことがあっても、どうしたら自分の身を守れるのか、どうやったら変えていけるのかということがまったくイメージできないし、自分がその中で主人公として活躍することが、イメージできないわけです。

だから、青年は違法な事態にあって我慢できなくなったら、辞めるという選択肢しか選べないわけです。私は、彼らが悪いのではないと思います。やり方を知らないだけなのです。

そういう意味で、現状に即して「たたかいとはこうやるのだ」ということを、身を持って教えていただくことが、労働組合の役割としては大事だと思います。

首都圏青年ユニオンは、個人加盟型ユニオンとして有名になりましたが、あの組合が優れている点は、とにかく労働者に「お前がたたかうんだ」ということを徹底していることだと思います。

そうしてたたかった組合員たちは、自分はこの組合に支えてもらった、この組合で自分の職場を変えることができたと正に実感しているので、自分の問題が解決しても基本的に辞めません。自分は、ほんの少しだけど成長することができたと実感する人は、次の新しいたたかいに飛び込もう、となっていくのです。個人加盟型ユニオンの問題点としてよく聞かれるような、「争議が終わったらカンパを払っておしまい」ということにはならないのです。

五つ目に、憲法と労働法との関係で述べたとおり、本来、労働組合が目指さなければいけないことは、憲法の理念を実現するために労働基準法をはじめとする労働法水準より高い水準の労働条件を維持・獲得する、という課題です。

労働組合は、今日、この五つの課題に十分に取り組めてこそ、憲法と労働法で期待されている重要な役割を果たしているといえると考えます。

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14 全労働に期待すること

以上の労働組合への期待をするということをみなさんにも期待し、さらにその上に、全労働をはじめ、公務員を組織している皆さん方にお願いしたいことを三つ申し上げて私の話をとじたいと思います。

一つ目は、構造改革路線には断固たたかうということです。これは皆さん自身の雇用や労働条件を悪化させるだけではなく、全国民的なナショナルミニマムを奪うものです。それを重視してたたかいに取り組むことはとても大切なことだと思いますし、全労働がその観点で運動を提起されていることは、私も運動方針などを拝見して心強く思いました。

二つ目は、非常勤職員などの実態も重視し取り組んでいただきたいということです。いままでの正規労働者中心の組織構成が、どうしても、弱い立場の非常勤職員等に、大きな歪みをもたらしていることは間違いないことです。

企業に社会的責任があるように、労働組合にもやはり労働組合法等で多くの役割を与えられている存在である以上、社会的責任があると私は思います。労働組合にもすべての労働者を視野に入れた労働者の権利の充実を担う責任がある。その責任の観点から言えば、身近な非常勤職員の実態を知り、その要求実現のために奮闘をすることが大事だと思います。

三つ目に、ぜひ皆さんにとくに強調したいことですが、公務員バッシングのイデオロギーに負けない、ということです。

最近、孫崎亨さんという人が書いた『日米同盟の正体』(講談社現代新書、2009年)を読みました。この中に、こういうことが書かれています。

「公務員バッシングというのは、これはアメリカが日本を支配しやすくするためのイデオロギー操作なのだ」という趣旨の指摘があります。どういうことかと言いますと、日本人はとにかく、謀りごとが嫌いで、経済的な利得関係で引き込めば、大体のことはだまし込むことができると欧米人は考えている。そのために日本人をどう謀るのかということを考えた。政治家を謀るのは簡単。経済人を謀るのも簡単。お前たちにとって得なんだということさえ示せば乗ってくる。乗ってこないのは誰か。それは役人である。役人は自分たちの国が、国としてきっちり機能するためにはどうしたらいいか、国の利益をしっかり考えて行動するので、なかなか謀りごとに乗ってこない。従って、アメリカが日本を屈伏させるために官僚機構を破壊することが重要になってきたので官僚たたきがはじまったと孫崎氏は言っています。

彼自身、外務省の出身なので、かなりそこは力が入っていると感じました。いずれも事実かどうかはわかりませんが、そういう側面があってもおかしくないと思いました。

というのも、実際、何でこんなに公務員がバッシングされる必要があるのかと思うからです。公務員の皆さんは本当に一生懸命に仕事をして、国民の人権保障やサービスの充実に向けて日々努力をされている人が多い。何でその人たちだけがおかしいことをしているかのように叩かれなければいけないのか。今は、貧困にあえいでいる国民の生活水準の方が問題なのであって、それをどう底上げするのかということが問題にならないといけない。公務員の労働条件や給料がいいとして引き下げろということは足の引っ張り合いでしかないのです。この足の引っ張り合いでしかないイデオロギーに、残念ながら一部の文化人たちも割合簡単に乗ってしまう。このイデオロギー構造は本当におかしなものだと思っています。

私は、公務員を組織する労働組合は、私たちが国民の人権を実現するために、このくらい大事な役割を果たしている、高いサービスを一生懸命やっている、そしてもっとこんなことをさせてくれれば、もっと人権は充実するんだということを堂々と言うべきです。そのために人数が足りなくて、これぐらいの人数が必要ですとか、こういう労働条件が必要ですと、堂々と言っていいと思います。ぜひ公務員バッシングのイデオロギーに負けず、頑張っていただきたいと思います。

以上をお願いして、私の話を終了させていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)

 

※ この事件は、本講演後の4月7日、東京地裁において原告勝訴の判決が下されました。判決は、本件における変形労働時間制の違法を認定し、労基法の原則通りの割増賃金を支払うことのほか、変形労働時間制を違法に運用していたことを根拠に付加金をも支払うことを命じる内容でした。

 

 

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