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  • 2008年 6月:全労働結成50周年記念フォーラム 第1部 記念講演 「世界を覆うグローバリゼーションと対抗軸−労使関係の国際比較と日本−」 東京大学名誉教授 田端 博邦

全労働の活動・とりくみ

2008年 6月
全労働結成50周年記念フォーラム
第1部 記念講演
「世界を覆うグローバリゼーションと対抗軸−労使関係の国際比較と日本−」
東京大学名誉教授 田端 博邦

はじめに

本日の講演では、世界的に猛威をふるっているグローバリゼーションの労働関係や労使関係に対するインパクトについて考えるということがテーマになっています。また、標題にありますように、そうしたグローバリゼーションの破壊的な影響に対する対抗軸についても議論してみたいと考えています。

レジュメでは、「とくに90年代以降にすすんだ雇用・労働分野での『規制改革』の背景」について考えてみる、ということになっておりますが、まず「規制改革」にカッコを付けている理由について説明しておきます。「規制改革」という言い方は、実は、1999年の4月に規制緩和委員会が規制改革委員会に名称変更したときにはじまります。そのときに言葉を変える理由なども説明されているのですが、政策方向の内容に根本的な変化はない、というのが私の理解でありまして、政策の基本は、それまでの規制緩和そのものです。つまり、法律的規制や行政的な規制を緩和していく、労働法についていいますと、労働市場や労働関係に関する法律的な規制やルールを緩和し、解体していくということを意味します。

もう少し具体的にいいますと、つぎのように論点を立ててみたいと思います。

第1は、グローバリゼーションを背景とする雇用・労働分野における規制緩和や規制改革がどのように進んできたのか、そうした政策を支える政策原理や思想がどのようなものであったかを改めて確認しておくということです。

第2は、規制緩和の流れが国際的にどのように展開してきたかを明らかにしてみることです。日本では、グローバリゼーションのもとで規制緩和は避けられないという議論が支配的ですが、世界的にみると底抜けの規制緩和や市場化は必ずしも当たり前のことではないということを示しておきたいと考えています。

第3は、そうした国際的動向も参考にしながら、対抗軸をどのように考えるか、対抗戦略の現実性はどの程度あるのか、ということを議論したいと考えています。

いずれの点についても明らかになっていないことがたくさん残ると思いますので、みなさんで十分に議論をしていただきたいと思います。また、本日は、全労働のみなさんの会合ですので、労働行政における民営化や民間委託の問題が大きな問題になりますが、これについてはみなさんの持たれている認識以上のことはお話しする能力がありませんので、一般的な状況をお話しすることで参考にしていただければと願うしだいです。

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1 規制緩和・規制改革政策の展開過程

まず、この間の規制緩和・規制改革の政策の展開過程を簡単に振り返っておきたいと思います。

レジュメにも書きましたが、わが国の規制緩和政策は、歴史的にみますと、およそ3つくらいの段階を経てきたといえます。

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「増税なき財政再建」と第2臨調

第1段階は、1981年に設置された第2臨調の行財政改革です。この第2臨調の改革は、財政再建のための増税構想に財界が反発したことに端を発しています。そのために、主として行財政の効率化や公共部門の民営化がターゲットになりましたが、今日までの新自由主義の考え方が政府の政策の基本に据わった起点をなしたという点で重要です。「小さな政府」とか「民間活力」というスローガンが正統性を獲得したのです。また、この第2臨調が“財界主導”と評されていたことも記憶しておいてよいことでしょう。それはネオリベラルな改革政策の性質を突くものであったからです。さらに、国際的にみますと、サッチャー、レーガンなどの新自由主義的な政策の流れと軌を一にするものであったことも周知のとおりです。歴史はこの時期に大きな転換期を迎えたということができます。

臨調の後ですが、80年代後半には、労働者派遣法の制定や、労働時間短縮に伴う労働時間制度の弾力化など労働法制の規制緩和がはじまりました。

第2段階は、90年代中ごろです。バブル崩壊後の不況をどう脱出するかということがテーマでしたが、ちょうどグローバリゼーションとネオ・リベラリズムが影響を強めていた時期でしたので、日本的システムに代わるグローバル・スタンダードが改革の基準となりました。グローバル・スタンダードは、市場主義的な自由主義にほかなりません。93年11月の経済改革研究会(平岩委員会)中間報告(「平岩レポート」)のあと、94年に政府は行政改革本部を設置し、そのもとに行政改革委員会がおかれます。95年に行政改革委員会におかれた「規制緩和小委員会」が徹底した市場主義に立った規制緩和政策を提案することになります。この時期の規制緩和の特徴は、日本的な護送船団方式を支えてきたとされた行政的規制を打破し、民間の市場の自由度(企業活動の自由)を高めることをめざしたという点にあります。つまり、80年代の行財政改革がもっぱら公的部門・公共部門の合理化・効率化を対象としたのに対して、民間部門を含む日本的な経済システム全体の市場化と効率化がめざされることになったのです。それには、80年代まで「日本的経営」として賞賛されていた下請け系列や終身雇用といった企業システムも対象として含まれました。日経連(日本経営者連盟)の有名な報告書「新時代の『日本的経営』」が同じ年(95年)に出されたのも単なる偶然ではないといえます。

この点は、雇用・労働問題を考える上では、非常に重要な意味をもちます。それは、労働市場や労働関係全般にわたって、「自由な市場」や「個人の自由」を原理とした、法制や政策の根本的な転換をもたらすことにつながるからです。

第3段階は、90年代末から2000年代になりますが、この時期に、雇用・労働分野あるいはさらに医療や教育などそれまで「社会的規制」とされていた分野に規制緩和政策が及ぶことになりました。99年の派遣法と職業安定法における“ネガティブ・リスト”方式の採用が典型ですが、労働市場が、一般市場と同じように、自由な市場とみなされるようになりました。その背景には、企業のリストラやコストダウンの追求とそれに応えた人材ビジネスの成長があります。さらに、この時期には、労働だけでなく、教育、医療、福祉、農業などの「社会的分野」における市場化が目指され、それらの分野の「官製市場」の「全面開放」というスローガンも登場してくることになります。公共職業安定所の業務の民間委託の推進や公設民営化などの政策が主張されるようになりました。この点は、みなさんがよくご存知のとおりです。

2000年代に入って、総合規制改革会議は、雇用・労働分野についての体系的な規制緩和を展開します。すなわち、「外部労働市場の規制改革」として、派遣労働、有期雇用、民間職業紹介などの分野の規制緩和が、「内部労働市場の規制改革」として、労働時間制度の規制緩和(ホワイトカラー・エグゼンプションを含む)と雇用保障の緩和・解雇ルールの見直しが重要論点として提示されることになりました。つまり、雇用と労働の全分野に規制緩和を及ぼそうという構えが明らかにされたのです。個別労使紛争解決手続き(労働審判制度を含む)は、こうした全面的な規制緩和における“事後チェック”のシステムとして位置づけられています。そして、こうした規制緩和を正当化する根拠として主張されるようになったのが、“高度の専門的なホワイト・カラーや派遣・有期などを選択する(!)”「新しい労働者像」というものです。

このような段階を経て、規制緩和政策はその対象範囲を拡大すると同時に、その内容もますます徹底したものに向かう傾向をもってきました。こうした規制緩和・規制改革の政策がどのような結果をもたらしているかということは、すでに明らかです。人材ビジネスの急成長と反比例して、労働市場の質は劣化し、労働者の雇用・労働条件は悪化しました。「格差社会」といわれるような所得分配の構造が現出したのは、このような規制緩和、「構造改革」政策のためであったといって誤りはないでしょう。

なお、最近では、昨年はじめのホワイトカラー・エグゼンプションの棚上げの頃からでしょうか、政府の政策方向が軌道修正に入りつつあるように見える現象が相次いでいます。とくに現政権になってからは、規制緩和や構造改革にブレーキをかけるという政策方針がかなり意識的にとられているように見えます。最低賃金制や派遣労働に関してはかなり具体的な施策がとられつつあります。「派遣労働者はなるべく正社員になれるようにすべきだ」という福田首相の言明は、その端的なあらわれのひとつです。

したがって、先に述べました3つの時期区分に加えて、第4段階の時期というものを設定することもできるかもしれません。しかし、このような政府の路線転換は、非正規雇用問題の深刻化と世論の批判によって強いられた面が強く、なお、どのような政策方向がとられるのかという点はまだ不透明だといえますので、結論は留保しておきたいと思います。しかも、これまでの規制緩和政策を推進してきた根本的な要因は、なおそれほど変わっているわけではないといえます。そこで、これまでの規制緩和を推進してきた力が本当のところどのようなものであったのか、という点について、もっと立ち入って考えておくことが必要です。

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2 規制緩和・規制改革の内実

規制緩和政策を推し進めてきた力は、大きく分けて2つあります。ひとつは、実物経済的な利害です。規制緩和を推進した勢力は、明らかに、そこに実際的な経済的利益を見出しているといってよいのです。もうひとつは、理論的なものです。規制緩和や自由市場が理論的に正しいと考えるひとたちがそれを推進しました。これは、同時に規制緩和の政策を正当化するという役割を果たしました。

このような2つの面から、規制緩和・規制改革政策を推進した力について考えてみます。

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(1)“財界主導”の規制緩和・規制改革…実物的利害

第2臨調のさいに使われた“財界主導”という言葉を使わせていただきますが、行政改革委員会以降の規制緩和政策も明らかに財界主導という特徴をもっています。細かく見ますと、臨調の際の“財界”は財界主流で、90年代以降のそれはむしろ傍流ともいえそうな金融や人材ビジネスの新興勢力ですが、簡単化のためにそう言っておきます。それは、例えば規制改革会議などのメンバー構成などにもあらわれていますが、肝心な点はむしろ、規制緩和という政策の中身にそうした性質が示されているということです。

経済がグローバル化し、国際競争が激しくなった、そのために生産コストを抑えて競争力を強化しなければならないというのが、とくに90年代以降の規制緩和の議論ですが、こうした議論が行われるときに、日本の大企業の多くが国際的な企業、多国籍企業あるいは世界企業という性格をもっていたことに注意する必要があります。

そのような企業にとっては、販路はグローバル市場ということになりますので、国際的なスケールで、可能なかぎり安価に生産できるような条件、どこにでも販路を広げられるような条件が国際的に整備されることが重要になります。したがって、国内において可能な限り安価に生産しうる条件をつくるということと同時に、グローバルなレベルでの自由貿易主義、その当然の跳ね返りとしての日本市場の開放・自由化、資本投資や企業活動の自由を実現することが、グローバル企業の基本的な要求ということになります。

また、企業活動の場がグローバル市場ということになりますと、日本国内の需要や景気という問題は相対的に重要性を失うことになります。グローバル企業にとっては、賃金や公的負担を高めることによって、日本経済の需要が拡大する、企業の販路が大きくなるという面と、これらのコストを低位に抑えることによって、グローバル市場における競争力を強められるという面とを天秤にかけて、どちらが企業の成長にとって有利かを判断するということになります。内需向けの産業は前者を重視するということになりますが、内需はより大きなグローバル市場の一部にすぎないと見なしうるようなグローバル企業にとっては後者の方がより重要だということになります。さらに、国内市場が自由化されていれば、安価な外国企業の製品との競争ということもありますので、生産コストの削減を志向する力はいっそう強まるということになります。そして、結果としては、国内の賃金購買力を高めるという選択肢はほとんど放棄され、生産コストの低減がもっぱら追求されてきたということは周知のとおりの現実の姿でした。

この間の規制緩和、規制改革を推し進めてきたのは、まさにこのようなグローバル企業の利害であるといってよいでしょう。このような視点に立ってみますと、以下のような実利が目指されていたということが明瞭に理解できます。

第1は、この改革において企業の公的負担の軽減が目指されたということです。行政改革もその一環と位置づけられますが、端的には、法人税引下げが典型です。なお、規制緩和に乗じて、公的事業を民間ビジネスで引き受けよう(「官製市場の開放」)というような付随的な現象も生まれました。

第2は、生産コスト、とりわけ労働コストを削減するということです。グローバル企業の場合には、生産拠点がグローバルに配置されているので、労働組合の賃金要求に対しては“生産拠点の移転”の脅しが強力な武器となりました。また、生産コストを各生産拠点相互に競わせることによって、人件費コストの削減に拍車がかけられました。労働法的な規制の緩和や、雇用保障の緩和はそうした労働コスト削減要求を反映するものにほかなりません。

第3は、あらゆる領域における規制の緩和、市場化が目指されたということです。これは、日本の市場を“自由”なものにすることによって、日本企業や日本政府の対外的な自由貿易主義の主張が強められるからです。その利益はすでに述べたことでお分かりのとおりです。

つまり、日本企業のグローバル化が、単なる“外圧”としてではなく、国内からの“内圧”として規制緩和を推進してきたということができます。このような規制緩和への圧力は今でもなお、依然として続いているとみるべきでしょう。

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(2)規制緩和を正当化する論理

しかし、一般に、生の経済的な利害だけでは、一国の政策を形成することはできません。それが、政策として形成されるためには、公平な立場から見て、それが正当だと考えられるようなものでなければならないからです。

規制緩和について、そのような正当化の役割を果たしたのは、市場原理主義とか新自由主義といわれる考え方であり、より学問的な理論としては、新古典派の経済学であります。

これらの考え方は、総じて、次のような考え方に立っています。すなわち、経済主体の個人または法人の自由と私的所有を基本前提として、市場が政府の介入なしに競争的に組織されている場合に、経済的な効率と成果の分配の公正さが最適になるというものです。もしこれが正しいとするなら、だれも反対しないでしょう。つまり、この理論は、誰でもが賛成するような結論になっているのです。

しかし、このような理論によって支えられた政策が破滅的な結果を生み出していることは先に述べたとおりです。したがって、社会的現実からこの理論を批判することは比較的容易なのですが、理論的にどのように正しくないのかを論証することは必ずしも容易ではありません。しかし、理論的に論破されない限りは、この理論は政策の正当性を支え続けるということになりますので、規制緩和政策を批判する場合には、この市場主義の理論を批判することが非常に重要です。ただ、内容について議論する時間がありませんので、ポイントだけ、ごく簡単に示しておきたいと思います。ひとつは、この市場原理主義が、非現実的な前提に立っていることです。労働政策では「新しい労働者像」がそうですが、すべての経済主体が経済的に自立した取引能力をもっており、自由に選択することができるという前提がそれです。そこでは、受け入れがたい条件でも労働せざるをえない人がいる、というようなことはありえない、とされているのです。したがって、新古典派的な理論モデルは、そうした前提を条件とすれば理論的には正しいと言えるのですが、それはあくまで理論的なモデルにすぎませんので、そのまま現実に適用することはできない、ということです。そして、最後に、こうした議論の実際上の帰結は、経済関係に「自由な個人」を前提とするシステムを回復するという主張ですので、国の財政的関与や法律的規制をゼロに近いものにすべきだ、労働組合のような“集団”の圧力は排除すべきだ、ということになるのですが、そうした政策的提案は現実の経済や社会を見たときに妥当と言いうるのか、ということが問題です。実際に「市場化」がすすむなかで、“勝ち組と負け組み”とか“弱肉強食”と言われるような社会現象が生じ、大量の“貧困”、若者のワーキング・プアが生まれています。これは、理論が主張する、すべてのひとが「自由な個人」であり、「公正な分配」が可能になるという見通しとは正反対と言ってよい結果になっています。

規制緩和政策がこのような理論をバックボーンにして展開されたことは周知のところですが、ひとつだけ証拠を挙げておきましょう。1997年の行政改革会議の最終報告ですが、ここでは、はっきりと「市場原理と自己責任原則」が改革の基本理念だとされているのです。この報告書だけではないのですが、こうした理念が堂々と掲げられていることには、改めて驚きを覚えます。

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(3)規制緩和のイデオロギーと世論

ところで、このように見てきますと、グローバル企業の利益に先導された規制緩和政策がなぜ多くの国民の支持を獲得したのか、という疑問が生じます。

その背景には90年代の深刻な不況という問題があると思いますが、「官から民へ」が無前提に正しいような、あるいは「改革」といえば良いことであるがごとき論調をとったマスメディアの責任は大きいと思います。それから、労働改革に関して言えば、これを批判すべき立場に立っていたはずの日本の労働組合がそれほど強く反対しなかったことも問題であったでしょう。

政府の軌道修正がはじまった今日でさえ、規制改革や規制緩和の問題性について、系統的に明らかにされているとはいえません。

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(4)対立する利害と構想 −市場の論理と社会の論理−

労働市場の規制緩和政策が、若者のワーキング・プアなど悲惨な現状を生み出したひとつの原因であるということは先に述べましたが、もっと一般的に言うと、規制緩和による市場の自由は、社会の人間生活にとってはマイナスを生み出すことがありうる、という点が重要です。

“労働ビッグバン”という掛け声で始まった経済財政諮問会議の労働市場改革専門調査会が、その第1次報告で“ワークライフバランス憲章”を提唱したのは非常に象徴的です。労働市場の規制緩和は、若者の非正規雇用化を生み出し、それは出生率の低下をももたらしていると見られるにいたったのです。つまり、ここには、労働市場の自由化による低賃金労働力の利用という政策が、それが企業にとっては、短期的に利益になる政策であるとしても、社会全体にとっては、少子化の加速とそれによる経済力の低下という不利益をもたらすという矛盾が示されているのです。

また、今年の春闘の推移にも同じような矛盾が示されました。サブプライムローンなど国際的な環境が悪化する中で、日本の景気を維持するためには高めの賃上げによって内需を拡大することが必要だという意見が各方面から持ち上がってくるということになりました。これが、福田首相の経済団体への働きかけになったことはみなさんご承知のとおりです。しかし、グローバル競争をする個々の企業にとっては、これは聞き入れられる提案ではありませんでした。つまり、ここには、自由な市場で活動する企業の論理が、国民経済全体の論理とは対立し、矛盾することがあるということが示されているのです。

ここ十数年の規制緩和政策は、“社会”を犠牲にして遂行されてきたということができます。

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3 規制緩和をめぐる対抗軸

(1)ネオ・リベラリズムの基点としてのサッチャー改革の意味

そこでいよいよ、対抗軸をどう考えるか、という点に入りますが、国際的に見て、日本の規制緩和政策はやや行き過ぎではないかという印象をもちます。“小泉改革”が手放しで賞賛されたのは、その極端な表れだと思いますが、対抗する勢力が弱いというのが日本の特徴ではないかという感じをもちます。

しかし、もともと対抗する勢力とはなんなのか、ということもそれほど自明ではありません。そこで、規制緩和に関する対抗関係とは、なにとなにが対抗することなのか、ということをもう一度整理する必要があります。企業や市場と対抗するのは社会である、といってもよいのですが、では、その“社会”の中身はなにか、というといま一つはっきりしません。

そこで、規制緩和とネオ・リベラリズムの元祖であるイギリスのサッチャー改革を例にとって考えて見ます。サッチャー改革は、しばしば「戦後コンセンサス」の破壊と評されます。どういう意味かといいますと、戦後の労働と資本の妥協と合意が、福祉国家と団体交渉体制を確立した、そうした労資の合意を破ったのがサッチャー改革であるというのです。これが、労働の排除を意味したことはいうまでもありません。日本の状況はこれとぴったり同じというわけではありませんが、共通点もあります。

つまり、新自由主義が打破の対象とした社会システムの基礎には強い労働側の発言力が存在していたということがポイントです。そうした社会システムとは、労働者の権利を認め、社会保障を充実し、経済政策としてはケインズ主義的な政府の介入政策をとるシステムです。それは、資本が、妥協の末に呑んだ体制ですが、資本にとってはコストのかかる体制でもありました。もっとも、コストがかかるといっても、人件費でいえば生産のコストは同時に国内の消費購買力をも意味しますので、この妥協の体制は、国内需要の拡大による企業の成長という結果ももたらしえました。60年代の世界的な高度成長期はそのようなサイクルが働いていたと考えられています。しかし、石油危機やスタグフレーションによって、こうした順調な経済成長は終焉し、資本の利潤率は圧縮されます。サッチャー改革は、労働の力を排除することによって、資本の負担を軽減し、資本の蓄積を促進しようとするものでした。

したがって、その後グローバリゼーションが広がるとともに、各国で資本が“戦後コンセンサス”から離脱して、自由な蓄積活動を展開しようとすることになったのは当然の結果であるといえます。グローバルな市場では、より競争力の強い企業が生き残ることになるからです。しかし、そのような資本の要求は、多くの国で労働の力によってブレーキをかけられました。そのために、ネオ・リベラリズムの浸透度には、国や地域によって、主として労働の力の差によって、違いが生じることになったのです。

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(2)グローバリゼーションと2つの社会像

ちょっと話題を変えますが、ミッシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』という本が1991年に出版されました。この本は、ほぼ同時期に出されたフランシス・フクヤマの『歴史の終焉』といろいろな意味で対照的な本です。いずれも世界的にかなり普及した本ですが、アルベールはフランス、フクヤマはアメリカです。フクヤマの議論は日本でもかなり有名になりましたのでご存知の方が多いかもしれませんが、ソ連・東欧の社会主義の崩壊によって、世界全体が自由な市場経済と政治的民主主義の支配する時代−人類が求めてきた究極の目標が達成された時代に入った(その意味でもう歴史はなくなる)というものでした。これに対して、アルベールは、まさに同じ国際的状況において、これからの時代は、資本主義と社会主義の対立に代わって、異なる資本主義と資本主義との対立と競争の時代に入るのだと主張したのです。

どちらの議論に意味があるかといえば、私はアルベールに軍配を上げますが、アルベールのいう資本主義と資本主義の対立というのは、アメリカ型の市場経済を基礎にした資本主義とヨーロッパ型の社会的市場と福祉国家をベースにした資本主義との対立を意味します。この2つの資本主義がどのように違うと考えられているか、アルベールの本にある図を簡単化した資料1をご覧ください。アメリカ型がほとんどを市場経済に頼っているのに対して、ヨーロッパ型では公共財や混合財が重要な位置を占めています。ひとつだけ、日本ではあまり知られていないかもしれない、分かりやすい例を挙げておきましょう。それは、大学の授業料のことです。日本の大学の授業料は相当高額で、家計への負担も大きなものがあります。国立でさえ、学生が自立して生活するとすれば相当困難な額だといえます。アメリカも、日本の常識と同じで、日本よりやや低いかもしれませんが、学費はかなり高額です。ところが、ヨーロッパではほとんどの国で大学の学費は無料です。アルベールの図では、「教育」のところの違いは見にくいのですが、実際は図よりもはっきりと違っているといえます。

本日のテーマとの関係では、とくに「企業と賃金」が、ヨーロッパ・モデル(ライン・モデル)で純粋の市場財でなく、混合財とされているところはやや驚きです。日本では、私企業が市場財で、民間の雇用関係が市場財であることは疑う余地のないものと信じられていると思います。しかし、これも、ヨーロッパの労働関係の具体的な中身を見ていくと必ずしも的外れとはいえません。

問題は、このような資本主義のあり方のかなり大きな違いができるのはなぜか、ということです。いろいろなファクターが考えられるのですが、ひとつの重要な要因は、労働の力、あるいは労働と資本の力関係の差異にあるといえます。ヨーロッパでは、伝統的に労働組合や労働組合政党が強い力をもってきたのに対して、アメリカでは、自由市場と企業の力が優越的な地位を保ってきました。つまり、規制緩和をめぐる対抗軸というのは、その担い手からしますと資本と労働の対抗関係であり、その社会像という点から見ますと、自由市場や自由企業体制を基本とする社会と労働者の権利や社会保障システムを組み込んだ、いわば「混合経済」的な社会との対抗関係を意味するということになるのです。グローバリゼーションによる世界的なネオ・リベラリズムの波、規制緩和の波というのは、実は、国際的なレベルにおける後者の社会システムから前者の自由市場システムへの移行(歴史的には19世紀自由主義への逆転とも評しえます)を意味するものにほかならないのです。実は、アメリカについても、歴史的な変化があります。アメリカも一貫して今日のような自由市場の国であったわけではなく(今日でも理論的な自由市場が貫徹しているわけではありません)、30年代のニューディールから60年代いっぱいのころまでは、労働組合の力も強く、社会保障も重視される国でした。アメリカ自身においても、世界的な歴史的変化と同じような変化が生じているのです。サッチャーが政権獲得後すぐに労働組合弱体化政策を開始したのと同様に、アメリカでは、レーガンが、航空管制官ストの弾圧に象徴されるような反労働組合政策をとったのです。

このような理解に立ちますと、規制緩和に対抗する主体の中心は労働勢力だということになりますし、その社会構想のレベルで言えば、その対抗軸とは、競争的な自由市場に対して、それを労働や生活の視点から制御し、コントロールすることだということになります。

そのような観点からすれば、労働の力の強さと労使関係のあり方が、この問題にとって非常に重要な関係をもつということになります。そこで、資料2をご覧いただきたいと思います。この表はポントゥソンというアメリカの研究者が、北欧、大陸ヨーロッパ、アングロサクソン、その他の4つのグループに先進国を分けて、労働組合の組織率と労働協約の適用率を整理したものです。これを見ますと、北欧、大陸ヨーロッパがアングロサクソン諸国に比べて組織率が高く、協約適用率は圧倒的に高いことが分かります。ただ、アングロサクソンのグループの中でもオーストラリア、ニュージーランドはやや特異ですし、アメリカとイギリスも相当異なることは注意しておく必要があります。

この表は、アルベールの言うような資本主義の型の差異が、労使関係の差異とうまく照応しているということを示しています。また、資料3を見ますと、ここには社会保障などの公共的社会支出の規模が出ています。案の定という感じですが、労働の強さと社会保障の充実振りもほぼ比例する形になっていることが示されています。また、資料4の総所得ジニ係数では、おおむね20年程度のタイムスパンの間で全体的にジニ係数が上がってきたことが示されています。グローバリゼーションの影響で市場化と格差の拡大が生じていることがわかりますが、地域別にみますと、大陸ヨーロッパでは比較的安定度が高く、労働の弱いアングロサクソン諸国のジニ係数が高く、かつ時系列的な変化、つまり所得格差の拡大のテンポが大きいことが示されています。

要するに、これらのデータの意味するところをまとめますと、労働組合の組織率が高く、労働条件規制力も強い国ほど、社会保障の規模も大きく、また労働所得の格差も小さくなるということです。逆に、労働組合の力が弱いところほど、社会保障の水準が低く、したがって自由市場のメカニズムに依存する度合いが高く、その結果として、賃金格差も大きくなるということです。

これらの資料は、また、グローバリゼーションのもとでの“市場化”の進行の度合いに差があることも示しています。組織率や所得分配の資料の異時点比較の数値が示すように、おおむね1980年くらいから2000年くらいの間に、労働勢力の後退と市場化(例えば所得格差の拡大)が進んだこと、そして、ここでも、労働の弱い国では市場化がより大きく進行し、労働の強い国ではそれにブレーキがかけられているということができるのです。

日本における規制緩和に対する対抗軸を構想するのはわれわれの責任だということになりますが、さしあたり、北欧や大陸ヨーロッパ諸国には、実際の対抗軸の在り様、あるいはひとつのあり方が示されているということになります。このことは、グローバリゼーションと規制緩和が不可避の、あるいは自然現象のように必然的なものでは必ずしもない、ということを示しているといえます。労働の力や、その他もろもろのファクターを総合することによって、底抜けの市場化のような政策は避けることができるし、また、市場の自由に対するオルタナティブをつくりうるということを、それは示しているのです。

また、先ほどの資料1に戻っていただきますと、「その他」欄にある日本が、国際的に見て、労働組合の組織率も低位で、労働協約の適用率も非常に低いということが分かります。国際比較的には、日本の労働の力は非常に弱い部類に入るのです。日本の規制緩和政策が、ほとんど底抜けに進行してきたのはそのためです。さらにいえば、日本で規制緩和に本格的なブレーキをかけるためには、労働の力がもっともっと強くならなければならないということが示唆されています。

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(3)グローバリゼーションをめぐる二つの構想

ヨーロッパだけでなく、グローバルな世界においても、市場主義的なグローバリゼーションに対するオルタナティブが芽生え始めています。

IMF、世界銀行、WTOなど世界経済を取り仕切る国際機関は、これまで市場原理主義的な信念に立った政策を展開してきたといわれています。“ワシントン・コンセンサス”というのは、こうした国際機関のテクノクラートに共有された市場原理主義的信念のことを言うのです。ところが、こうした“ワシントン・コンセンサス”にもほころびが見えはじめています。日本でも有名なアメリカの経済学者ジョセフ・スティグリッツが『Making Glogalization Work(グローバリゼーションを機能させる)』(2006年、邦訳は別のタイトル)という近著で、今では「ポスト“ワシントン・コンセンサス”コンセンサス」ができつつあるということを指摘しています。スティグリッツは、ワシントン・コンセンサスに批判的な立場に立っているのでやや過大評価している気味があるかもしれませんが、彼はまた世界銀行の仕事にも携わった経験がある人ですので、内情には通じていると思いますから、根も葉もない話ではないと思います。環境問題や貧困問題の深刻化のなかで“市場原理”だけではうまくいかないということがかなり広く認識され始めているということになります。また、ごく最近の例ですが、世界銀行のある委員会が“ワシントン・コンセンサス”の見直しを提案しているということです。これを報じたフランスの新聞『ル・モンド』(2008年5月23日)には、「専門家の報告が有名な、かつ非常に自由主義的な“ワシントン・コンセンサス”を見直し」、「より野蛮でないグローバリゼーションへ」という見出しがつけられています。

このように、原理的に市場主義に立ってきたこれらの国際機関に変化が生じ始めているというのが、最近の重要な変化のひとつです。

他方、国際機関のなかでは、ILOの『ディーセント・ワーク』(1999年)やILOが委嘱した世界委員会が出した『公正なグローバリゼーション』(2004年)が、正面からIMFや世銀のワシントン・コンセンサスを批判して、野放図な市場主義とは異なるグローバリゼーションのあり方を提案しています。後者の書名になっている「フェアなグローバリゼーション」、「人間の顔をしたグローバリゼーション」、「より良いグローバリゼーション」などが、そうしたオルタナティブの構想のキャッチフレーズとして使われています。そこでは、共通して、世界経済のルールの形成と同時に、各国地域における労働者の権利、完全雇用、社会保障の充実などが目指されるべきものとされています。上述の例でいえば、ヨーロッパ型の社会の理念をグローバルに追求しようというのがILOの考え方といってよいでしょう。また、労働組合の国際組織のITUCもネオ・リベラリズムのグローバリゼーションを根本的に変革するという戦略を描いています。もちろん、国際機関のなかでILO的主張はまだ少数意見に止まっているといわなければなりませんが、先ほどの世銀の動向などをカウントしますと、ILO的路線はむしろ押し気味の情勢になってきているようにさえ見えます。

このように見てきますと、日本国内の動きだけを見ていたのではつかめない新しい可能性があることに気付きます。「グローバリゼーションに沿って市場主義的な改革が必要だ」という日本で支配的な議論は、どこにでも通用する議論ではないのです。文字通りのグローバルな世界においてでさえ、“自由な市場”の原理だけを追求する路線はいまや壁に突き当たりつつあるということができます。規制緩和や自由市場をここまで続けると大きな問題が出てくるということが経験的に明らかになってきたということ、そのために市場主義に代わる社会の構想が真剣に模索される時代に入ってきたということができます。

いま、労働の側は、ネオ・リベラリズムに代わる社会についての構想を真剣に検討することが必要だといえます。

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4 どのように考えるべきか

最後に、結びにかえて、そのような構想を検討する際に突き当たることになると思われるいくつかの問題点について簡単なコメントをしておきたいと思います。

(1)労働市場と「個人の自律」

ひとつは、個人の自由と法規制との関係です。しばしば言われるのは、法規制は、労働市場で弱い立場に立つ労働者の保護のためになされてきた。労働者が自律的になっているので(規制改革会議の「新しい労働者像」)、規制は最小にしたほうがよい。法規制は、個人の自由を狭めている、というような議論です。「自律的労働時間管理」という用語法なども同様です。つまり、個人の自由と法律的規制とを相互に背反するものとして設定するのが、この種の議論の特徴です。

問題は、果たして「自由」と「規制」とをこのように対立するものとしてだけ捉えてよいか、ということにあります。「規制」というとなんらかの強制を含むので、これが「自由」を制限するという議論は分かりやすいし、したがって説得力をもっているのですが、同じように分かりやすく言うと、「規制」には、個人の自由を制限するものと、反対に個人の自由を発展させるために必要なものとがある、ということができます。たしかに、表現の自由や学問の自由、政治的自由などの規制は、文字通り市民の「自由」を侵害する悪しき規制です。しかし、例えば義務教育というものを考えてみてください。それは、たしかに強制の要素を含んでいますが、それは、子どもたちが自己の能力を発展させ、自由を獲得するために必要な「強制」です。労働時間の限度を規制することも、「自由」や自由の基礎である健康のために必要なものではないでしょうか。

あらゆる規制が自由に反する、という議論は、すべてのひとが完全な自由をすでに享受しえている(そのために必要な所得と健康を保持している)という観念的な前提に立っています。しかし、実際には、さまざまの個人がさまざまな社会的条件のなかで生存しているのです。そうした社会的な文脈を無視して、「個人の自由」の絶対性を主張することは、「失業の自由」や「飢餓の自由」を主張することにほかなりません。

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(2)「官から民へ」と社会的制度

規制緩和や構造改革で言われてきたもうひとつのキーワードが「官から民へ」というものです。ここでもう一度、アルベールの図(資料4)を思い出してください。用語は違いますが、「官から民へ」というのは、非市場財、混合財から市場財に移行せよ、ということを意味します。アメリカ的市場経済へ、というのがこの言葉の意味なのです。

雇用、労働関係で、自由市場の弊害から生まれたのが、労働法や労働組合、労働行政などの社会的制度です。これらは、いずれも自由市場の弊害から、労働者の自由や生活を守るために機能してきました。「官から民へ」は、まさに、そのような社会的制度を破壊することを意味するものにほかなりません。ここでも、「官」(このような呼び方自体にある種の問題があります)一般を縮小し、「民」一般を拡大することがよいわけではない、という当たり前のことをきちんと考えることが必要です。具体的に、なにについて「官から民へ」が望ましいのか、反対に「民から官へ」が望ましいことはないのか、ということを詰めて検討することが必要ですし、また「官から民へ」がもっている本質的なねらいと機能を(以上の講演でお話したとおりですが)を見誤らないことが必要です。

さらに蛇足を加えますと、もともと「官から民へ」のキャッチフレーズが世論受けをするのは、日本の民主主義が非常に未成熟であるからです。自らのコントロールの及ばない「官」を、「官」ゆえに敵視する意識がそこには存在しているからです。市場主義を克服することと並んで、民主主義を成長させることが必要です。

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(3)経済と人権・生活

しかし、労働者の保護と言ったって、企業が倒れれば元も子もないのだ。経済が立ち直るまでは“痛み”を我慢してもらわなければならない、というのが小泉=竹中構造改革のときの言い分でした。ここには、まず経済をよくすれば、まず企業をもうかるようにすれば、あとは自動的に消費者、国民、労働者の生活や所得は改善されるのだ、という議論が含まれています。

しかし、本当にそうなのか、それが問題です。このところ「長期の好況が続いている」と言われていたのですが、国民の所得はなかなか上がりませんでした。グローバリゼーションのもとでは、企業の利潤は国内に還流するとは限らないのです。ITUCのプログラム文書のなかに、「金融、商業、経済に関する調整よりも人権が優先すること(primacy ofhuman rights over financial,commercial or economic regulations)」(第9項)というくだりがあります。これはIMF、世銀などについて語られている部分ですが、おそらく一般的にも妥当するでしょう。経済よりも人権や生活が優先すべきなのです。経済は、本来はそのための手段にすぎないからです。

したがって、そのためには、賃金の分配や社会保障による再分配に関する社会的諸制度の仕組みを組み直すことが必要になるのです。

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(4)労働の力と社会の構想

これについては、すでにお話したとおりです。労働や生活、人権を尊重する社会の仕組みをつくる基本的な力は、労働の勢力です。

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(5)グローバリゼーションの意味

これで終わってもよいのですが、最後の最後に、グローバリゼーションについての見方について一言付け加えておきたいと思います。

日本では、グローバリゼーションをあたかも自然現象のように動かしえない与件とみなす見方が一般的です。しかも、グローバリゼーションが自由市場を基調としているということになれば、「長いものには巻かれろ」式に、日本の社会経済システムを“市場化”しなければならない、という論調がまかりとおるということになります。

しかし、ILOやITUCの考え方では、グローバリゼーションは人間の力で制御しうる、コントロールしうるものだということになります。こうした見方が厳密な意味で正しいと言いうるか議論の余地がありうると思いますが、そのように考えることの価値は大きいと思います。それは、最貧国問題などを含めて、世界を人間的なものにしうる途であるからです。

以上で終わりにさせていただきます。

(この原稿は、講演のための草稿を若干補足したものです。そのために、講演では時間の制約のためにふれられなかった部分も含まれています)

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